ケンタッキー大学公式サイトのクリフ・ヘイガン追悼画像。本人の実際の肖像と1931—2026年の生没年を含む。肖像の撮影日は未確認

ケンタッキー大学は10月16日、名選手で元体育部長のクリフ・ヘイガンが94歳で死去したと発表した。ネイスミス・バスケットボール殿堂の記録は、逝去日を10月15日と確認している。1951年ケンタッキーのNCAA優勝メンバーで、1958年にはセントルイス・ホークスでNBAを制し、1978年にバスケットボール殿堂入りした。

1951年に優勝、1954年は全勝でもトーナメントに不出場

ケンタッキー州オーエンズボロ出身で、1949年秋にケンタッキー大学へ入学。代表チーム初年度にアドルフ・ラップ監督の下で母校の1951年全国優勝を助けた。大学によると、出場した三シーズンの通算は86勝5敗で、サウスイースタン・カンファレンスのレギュラーシーズンを三度制した。

1953—54年は25勝0敗、全国一位を残し、ヘイガンは平均21.6得点、16.5リバウンドだった。ただし、もう一つのNCAA優勝シーズンではない。本人と他の主力二人がすでに卒業しており、当時の規則では卒業生はNCAAトーナメントに出場できなかった。大学は招待を辞退し、全勝のレギュラーシーズンと全国王者は別の記録となった。

ラッセルに関わるトレードが、ホークスとセルティックスをつなぐ

大学でのキャリア後、米空軍で二年間服務し、1956—57年にNBA入りした。当初ボストン・セルティックスに指名され、その後エド・マコーリーとともにセントルイス・ホークスへ移籍。セルティックスが得たのはビル・ラッセルの交渉権だった。

ホークスに十年間所属し、NBAオールスター五度、オールNBAセカンドチーム二度に選出された。1958年にはホークスでNBA優勝し、決勝相手はセルティックスだった。殿堂資料はNBAプレーオフ平均20.4得点、8.3リバウンドも記し、重要な試合での働きを示す。

NBAの後はホークスのテレビ・ラジオ解説を務め、1967—68年に創設直後のABAへ移り、選手兼監督としてダラス・チャパラルズに加入。初年度オールスターに選ばれ、1969—70年にこの段階の選手・監督業を終えた。

母校へ戻り、選手経験を体育運営へ

1975年7月にケンタッキー大学体育部長となり、1988年まで務めた。大学は訃報で、フットボール練習センター、水泳施設、屋内テニス施設など当時の整備を振り返った。影響はバスケットボールチームを越えた。

学業支援も具体的な貢献だ。大学初の体育部門の学業アドバイザーを採用し、1981年には学業・個別指導サービスセンターCATSを設け、学生アスリートに専門の学業支援を提供した。大学が今追悼するのは選手時代のトロフィーだけでなく、コートを離れた後の学習と成長の条件も含む。

INKA SPORTS 分析:優勝歴の外に、制度とサービスの継続

ヘイガンの経験は大学、NBA、ABAの三つの舞台と、選手・管理者の二つの立場をつなぐ。1954年の全勝とトーナメント不出場は、時代の異なる栄誉の比較には当時の参加規則を見る必要があると示す。母校で学業指導を築いたことは、貢献を競技結果から学生アスリートの日常のサービスへ広げた。

総括

選手歴は1951年の大学優勝、1958年のNBA優勝、1978年の殿堂入りの三記録に見える。ケンタッキーへの長期的影響は、1975〜1988年の体育運営での施設と学業支援も含む。これらの具体的な経験が、母校が追悼する理由をともに構成する。