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1976年、ニュルブルクリンク。ジャコモ・アゴスチーニはMV Agustaを駆り、500ccドイツGPを制した。この時点で彼はすでにヤマハでも世界王者となり、スズキも新たなタイトル争いの中心になっていた。MVの赤と銀のマシンには、なお先頭でゴールする力があった。それでも、最高峰クラスのGPで再び勝つことはなかった。
その勝利は、時代の継ぎ目のようだった。異なるファクトリーとエンジンの時代を経験したライダーの勝利であり、年間王座を長年の習慣に変えたイタリアメーカーの勝利でもあった。1958年から1974年まで、500ccライダーズ世界タイトルは17年連続でMVのライダーが獲得した。1956年の初戴冠を加えると、その歴史には最高峰クラスのライダーズタイトルが18回刻まれている。
小排気量車から出発したMVは、サーティース、ヘイルウッド、アゴスチーニ、リードを次々と最高峰クラスの王座へ導いた。王者が入れ替わっても、ファクトリーは勝ち続けた。だが日本メーカーの2ストロークマシンが追いつくと、それまで最も成功していた組み合わせは次第に離れていく。この盛衰は、戦後の二輪車産業の拡大と、レース技術の転換をつないでいる。
航空機企業が最初に造った、日常の足となる小型二輪車
画像出典:MV AgustaMVの名はMeccanica Vergheraに由来し、その後ろにアグスタ家の名が続く。第二次世界大戦の終結前後、航空事業が制限を受けたことで、一家は二輪車へ進出した。1945年に登場したMV 98は、後に恐れられる大排気量レーサーとは大きく異なる。まず応えようとしたのは、人々が再び移動するための手段だった。
航空機の経験は機械加工の技術と人材をもたらしたが、それだけで世界タイトルが手に入るわけではなかった。公道で使え、販売でき、整備もできる二輪車の造り方を、工場はなお学ぶ必要があった。レースへの参入は、さらに別の課題を生んだ。高速走行を続けるなかでエンジン、フレーム、駆動系、ブレーキが一体となって機能するかは、静止状態の展示よりはるかに答えの難しい問いだった。
ドメニコ・アグスタは、ブランドを育てるうえでレースを中心に据えた。勝利はまだ知られていない二輪車に信頼を与え、ライダーは人々がブランドを知る入口になり得た。アグスタ博物館の回顧でも、この考え方は初期のブランド経営の重要な要素とされている。サーキットでの実績と、消費者が抱くイメージが密接につながり始めたのだ。
それでもレースと市販製品は、関係しながらも別々の仕事だった。レースで高出力を出し続けられる機械が、そのまま安価で静かで整備しやすい移動手段になるわけではない。後にMVが持つようになる魅力は、まさにその距離から生まれた。人々は市販車を買いながら、ファクトリーレーサーが象徴する速さに近づきたいと願った。
初の世界タイトルは125ccから
MVの世界タイトルの物語は、セシル・サンドフォードから始まる。1952年、この英国人ライダーはMVで125cc世界王者となった。世界選手権は始まってまだ数年で、メーカー各社は形成途上の国際的な舞台で地位を築こうとしていた。小排気量クラスでの成功は最高峰の物語に添える注記ではなく、ファクトリーがシーズン全体を勝ち抜く方法を学ぶ過程の一部だった。
この時期には、レスリー・グラハムも重要な役割を果たした。1949年にAJSで初代500cc世界王者となった後、MVへ移籍した人物だ。彼の加入で大排気量プロジェクトには、最高峰の戦いを知るライダーが加わった。小排気量車がタイトルを取り始める一方で、MVは500ccへの挑戦に必要な人材とマシンも整えていた。
ファクトリーは他のイタリアのレース活動からも技術者を迎えた。ピエロ・レモールとアルトゥーロ・マーニは、それ以前にジレラで働き、MVへ移って初期のレース事業に携わった。レモールは初期の500ccと4ストローク125ccレーサーを設計した。人材の移動によって、新興メーカーはあらゆる機械的な問題を独力で一から解き直さずに済んだ。
サンドフォードは『Motor Sport』の回顧インタビューで、マン島に到着して初めてそのMVを見て、TTの練習で初めて乗ったと語っている。今日の長いシーズン前テストのイメージとは、かなり異なる準備だった。ライダーは限られた実走のなかでマシンを素早く理解しなければならず、ファクトリーも、まだ車両を十分には知らない人物に信頼を託す必要があった。
カルロ・ウビアリは1953年にMVへ移籍し、1955年に125ccの王座を奪回した。1956年には125ccと250ccの両タイトルを獲得し、1959年と1960年にもダブルタイトルを達成した。観客から見過ごされがちな小排気量マシンは、こうしてMVのトロフィーを支える大きな柱となった。
ウビアリがMVで獲得した世界タイトルは8回。モンディアルで勝ち取った1951年の125cc王座を加えると、個人通算は9回となる。MVでの125cc5冠、250cc3冠は、彼をブランドの小排気量部門の中心人物にした。後にサーティースが大排気量クラスで連覇を始めても、ウビアリは別の舞台でファクトリーの勝利を積み重ねていた。
小排気量のレースは、とりわけ速さが排気量だけでは決まらないことを教える。出力が小さいほど、コーナーで失った勢いを直線で取り戻すのは難しい。ライダーには滑らかにつながるラインが求められ、エンジンには限られた排気量で安定して力を発揮することが求められる。後にもっと速い最高峰のマシンが登場しても、そこで得た経験の価値は失われない。
サーティースがMVを500ccの頂点へ導く
ジョン・サーティースは1956年にノートンからMVへ移籍し、初年度に500cc世界タイトルを獲得した。機械工学の訓練を受けており、操縦だけでなく機械の働きにも通じていた。走行中の感覚をガレージへ持ち帰り、技術者と改良を話し合うことは、当時のファクトリーマシン開発の重要な部分だった。サーティースは、その両方の言葉を理解できた。
サーティースの初戴冠は、競争環境の変化とも重なった。ジレラの名手ジェフ・デュークは、ライダーのストライキを支持したことでFIMから出場停止処分を受け、一部のレースを欠場した。MVはこのシーズンの好機をつかみ、初めて500ccライダーズ王者の一覧に名を刻んだ。ただし、その後の長期支配に至るまでには、一度タイトルを失う経験が待っていた。
1957年、サーティースは王座を守れなかった。その年末、イタリアの二輪車業界では、共同でグランプリから撤退する決定がなされた。ジレラ、モンディアル、モト・グッツィはファクトリー活動を停止し、MVは最終的に継続を選んだ。安価な自動車が二輪車市場に与える影響は、レースにどれだけ資源を配分するかという判断にも及んでいた。
ジレラなどの撤退後、MVは大排気量クラスにファクトリーとして投資を続ける主要勢力となった。人材と開発を維持できた一方で、競合陣営は明らかに縮小していた。サーティースは1958年から、その有利な条件を継続的なタイトル獲得へと結びつけた。
続く3年間、彼は350ccと500ccの両世界タイトルを連続して獲得した。MVにとって、それは一度の初戴冠以上に説得力のある実績だった。二つの大排気量クラスで、同じライダーに年間を通じた競争力を持たせ続けられるようになったからだ。その継続には、マシンの性能とライダーの走りの両方が安定していなければならない。
サーティースは1960年にF1参戦を始め、その年末に二輪レースを離れ、後にフェラーリで1964年のF1世界王者となった。MVが失ったのは普通のライダーではなく、3年連続でダブルタイトルを達成したばかりの人物だった。次に問われたのは明確なことだった。マシンは残っているが、乗り手が替わっても勝つ仕組みは機能し続けるのか。
サーティースが残したのは500cc4冠と350cc3冠だった。次のライダーが引き継ぐマシンには、複数シーズンの競争と改良が積み重なっていた。それでも、その蓄積を新たな成績に変えるには、自分自身の走りが必要だった。MVの連覇の歴史は、ここからライダーの継承の歴史にもなっていく。
ホッキングからヘイルウッドへ、途切れなかった王座
画像出典:MV Agusta1961年、ゲイリー・ホッキングはMVで350ccと500ccのタイトルを獲得した。簡潔な歴史では、サーティースとマイク・ヘイルウッドの間に挟まれ、名前が一瞬で通り過ぎることも多い。それでも彼は、実際に王者の後を引き継いだ。看板ライダーが去った後も、その年の500cc王座によってMVは頂点にとどまった。
続いて主役となったヘイルウッドは、1962年から1965年まで500cc世界タイトルを4年連続で獲得した。彼の力は大排気量車に限られず、1961年にはすでにホンダで250cc世界王者となっていた。MVでは複数クラスの経験とファクトリーのマシンを組み合わせ、ブランドの連覇記録をさらに延ばした。
複数クラスへの参戦では、同じライダーが異なるブレーキング地点、出力特性、シフトのリズムに適応する必要がある。一つのクラスで身につけた動作を、そのまま別の車両へ移せるとは限らない。異なる排気量とメーカーで成功したヘイルウッドは、MVが迎えたのが特定の一台に慣れた人ではなく、新しいマシンを素早く理解できる王者だったことを示している。
イタリアのブランドの名声を築くために、MVがイタリア人ライダーだけに頼ったわけでもない。サンドフォード、サーティース、ホッキング、ヘイルウッド、そして後のフィル・リードは、国境を越えた人材のつながりを成していた。工場はイタリアにあったが、レース活動は初期から、各地のライダーの経験と欧州のサーキットでの実証に支えられていた。
1965年、若いアゴスチーニがMVに加わり、ヘイルウッドとともに走った。ファクトリーは新人に350ccと500ccの出場機会を与え、その隣に現役王者を置いた。二人はガレージで協力し、コースで速さを比べた。この1年の学びは、ヘイルウッドの移籍後、すぐに直接対決へつながっていく。
3気筒マシンはいかにして時代の象徴となったか
アゴスチーニとMVの直列3気筒レーサーは、ブランドの歴史を最も分かりやすく伝える組み合わせとなった。1965年、彼は新しい350ccの3気筒車でニュルブルクリンクを制し、GP初優勝を挙げた。同じ時期、ヘイルウッドはMVの500cc4気筒車で勝ち続けていた。赤と銀の塗装の下では、異なるエンジン方式が並行して開発されていた。
気筒数が変えるのは音だけではない。総排気量が近くても、配置によってシリンダーの寸法、使える回転域、部品点数、エンジンの形状は変わり得る。さらにエンジンは、フレーム、吸排気、駆動系、ライダーの姿勢と合わせて配置しなければならない。技術者が追い求めたのは一つの数値を最大にすることではなく、マシン全体をコース上でより有効に働かせることだった。
3気筒方式を記憶すべきなのは、MVの中期の戦いを支える重要な手段となり、アゴスチーニの数多くの勝利に伴走したからだ。同時にそれは、すでに勝っているメーカーもマシンを変え続けることを示す。長い連覇の記録は滑らかに見えるが、十数年間まったく同じ部品を使い続けて成立したはずはない。
マシンが扱いやすいかどうかは、最後にはライダーが具体的なコースで確かめる。直線ではパワー、進入では安定性、立ち上がりではスロットルとグリップのかみ合わせが問われる。アゴスチーニは1965年に350ccと500ccの両方で優勝し、両クラスの年間ランキングでも2位となった。ファクトリーの新たな組み合わせには、次のタイトルに挑む土台ができていた。
その後、3気筒マシンとアゴスチーニは、ともに最も成功した時期へ入っていく。一つのエンジン形式が勝ち続けることで記憶され、ライダーも長年同じブランドに乗ることで、その名と深く結びついた。MVを離れるころには、乗り換えることが、世間の抱く彼のイメージ全体を変えることに近くなっていた。
1967年、最も有名な一戦だけでは決まらなかった王座
ヘイルウッドは1966年にホンダへ戻り、アゴスチーニがMVの中心となった。チームメートはすぐにライバルへ変わった。1967年マン島Senior TTでの対決は、大会史に残る最も有名な一章となる。MVをよく知る王者が、別のメーカーのマシンで自分の後継者に挑んでいた。
レース後半、アゴスチーニは一時12秒のリードを持っていた。しかし5周目、ウィンディ・コーナー付近でMVのチェーンが切れ、勝機は失われた。ヘイルウッドは優勝し、平均時速108.77マイルのラップ記録を残した。その記録が破られたのは1975年だった。ライダーの走りと機械の信頼性、その両方が結末を決めたレースだった。
年間争いは最終戦カナダまで続いた。ヘイルウッドが再び勝ち、二人は最終的に有効得点で並び、優勝回数も5回ずつだった。次に比較された2位の回数で、アゴスチーニが3回対2回と上回り、王座を手にした。マン島の故障は一つの勝利を奪ったが、ほかのコースから持ち帰った得点が最後にタイトルを守った。
このシーズンには、同じほど鮮明な二つの結末がある。ヘイルウッドは最も有名な直接対決を制し、マン島のラップ記録を8年間保持した。一方、アゴスチーニは年間王者となり、MVの連覇記録を守った。一戦での速さと、シーズン全体の完走成績は、それぞれの重みを残した。
この対決は、後に競争の厳しさを論じる際の基準にもなる。アゴスチーニはホンダ撤退前にすでに500ccで2冠を獲得しており、ヘイルウッドとの直接対決はその経歴の一部だ。その後にライバルの陣容が変わったことも、続く連覇を理解するうえで見落とせない条件である。
5年連続のダブルタイトル、ファクトリーの優位を確かな走りで結果へ
ホンダは1967年シーズン後にグランプリから撤退し、最高峰クラスのメーカー間競争は変化した。1968年から1972年まで、アゴスチーニは350ccと500ccのライダーズ世界タイトルを5年連続で独占した。MVと彼は最も圧倒的な時期に入り、ブランドの名は長く続く勝利と強く結びついた。
MVは二つのクラスの主要な成果を、一人のライダーに集中させた。アゴスチーニが350ccと500ccを乗り換え、メカニックは2種類のマシンを用意した。5シーズンにわたり、ライダー、技術陣、参戦計画がこの二正面の仕事を軸に動き、最終的に10個のライダーズ世界タイトルを生んだ。
エンジンは最後まで持ちこたえ、ライダーはミスを避け、チームは2種類のマシンを各地のサーキットへ運ばなければならない。速さで上回っていても、スタートの失敗、機械的な故障、一度の転倒で勝利は消え得る。1967年TTのチェーン切れは、その教訓をMVに強く刻んだ。長期の成功も、結局は一戦ずつ走り切って築くものだった。
同時に、その優位は、別の場所で競争力が伸びる速さを見えにくくする可能性もあった。日本メーカーは2ストロークエンジンと市販レーサーの開発を止めず、新しいマシンは高性能をより多くの参戦者へ広げていった。MVの成績表は依然として華やかだったが、将来の脅威は、別のライダーがより良いタイヤを履くという程度のものではなくなっていた。
1973年には、その脅威は開発工場からGPのスターティンググリッドへ出てきた。ヤマハはもはや、小排気量クラスだけで欧州ブランドと競う存在ではなかった。新しい500cc2ストローク車は、MVが長年占めてきた主戦場へ直接乗り込もうとしていた。
伯爵の死後、リードがつないだ最後の最高峰クラス2冠
1971年にドメニコ・アグスタが死去し、レース活動は長年の指揮者を失った。家族企業はその後、新しい経営体制に直面したが、ファクトリーチームは参戦を続けた。伯爵が生前に築いたライダーと技術の体制は、なおMVの戴冠を支えていた。ただし、長期投資を決める人物は変わっていた。
1973年、フィル・リードがMVで500cc世界王者となり、アゴスチーニは350cc王座を守った。MVは引き続き二つのライダーズタイトルを持っていたが、両方のトロフィーが一人のものになる時代は終わった。アゴスチーニの500cc7年連続王座は途切れた一方、ブランドの最高峰クラス連覇はひとまず続いた。
リードは急きょ穴を埋めた新人ではない。すでに125ccと250ccで世界タイトルを持ち、異なるマシンの豊富な経験もあった。アゴスチーニが1974年にヤマハへ移籍した後、リードは再び500cc王者となり、MVで自身の2連覇を達成した。ファクトリー最後の最高峰クラスの栄光には、彼の名をきちんと記す必要がある。
1974年の二つのランキングは、技術の交代期を切り取っている。リードはMVの500ccライダーズタイトルを守り、ヤマハはメーカーズタイトルを獲得した。アゴスチーニの新しいプロジェクトにはすでに速さがあり、MVの従来の王者の組み合わせも、まだ年間の争いを制することができた。
ライダーズタイトルは個人の得点を、メーカーズタイトルは該当する規則に従ったブランドの成績を測る。後者が移り、前者がMVの手に残ったことは、競争上の優位が一瞬できれいに入れ替わったわけではないことを示している。ある日に一つの時代が突然終わったと断言するよりも、このような移行のほうがレースの発展の実態に近い。
2ストロークの挑戦が変えた、マシン全体の課題
ヤマハは1973年にファクトリーチームとして500ccへ参戦した。ヤーノ・サーリネンはYZR500で開幕戦フランスGPを制し、続くオーストリアでも勝った。その後、イタリア大会の250ccレースで命を落とし、ヤマハはそのシーズンの残るファクトリー参戦を停止した。それでも新技術は、MVに直接挑める力をすでに示していた。
2ストロークは4ストロークと作動サイクルが異なり、同じ回転数でも燃焼によって仕事をする頻度や吸排気の仕組みが変わる。その構造には性能を引き出す可能性がある一方、出力特性、燃焼、排気、信頼性の課題も生じる。理論的に有利だからといって、すべてのコースで自動的に速いマシンになるわけではない。
後に登場したヤマハの0W23は、新たな競争がエンジン形式だけの争いではないことを示した。エンジンとフレームを見直して車体を軽くコンパクトにし、交換しやすいカセット式変速機を採用した。セッティングには、単に最高出力の曲線を追うだけでなく、ガレージでの作業効率と、異なるコースへ素早く合わせる方法も含まれるようになった。
1975年、アゴスチーニはヤマハで500cc世界王者となり、MVの長い連覇の後に新しい王者の組み合わせを作った。4勝と2位2回を挙げ、有効得点でリードを上回った。MVを最も強く象徴していた人物が、別のメーカーのマシンでも年間のタイトル争いを戦い抜けることを、自ら証明したのだ。
MVにとっての難しさは、従来のマシンが突然無価値になったことではなかった。改良を続ける相手が、使える優位を広げていたのである。成熟した技術体系は一部のレースでまだ勝てても、従来と同じ投資と方法で年間王座を守れるとは限らない。個々のレースでの競争力と、活動の長期的な方向性が、ここで分かれ始めた。
ニュルブルクリンクの勝利は、時代を巻き戻さなかった
1976年、アゴスチーニは再びMVで参戦し、350ccオランダ大会と500ccドイツ大会で優勝した。ニュルブルクリンクでの500ccの勝利は、彼自身の最後のGP優勝であり、MVの最高峰クラス最後の勝利ともなった。なじみ深いライダーとブランドが、変わりつつあるレースの舞台で再び出会った。
しかし、そのシーズンの年間の主役はスズキだった。バリー・シーンが500cc世界タイトルを獲得したのである。MVはなおニュルブルクリンクで勝てたが、シーズン全体の競争の中心は日本メーカーへ移っていた。かつての王者の最後の勝利と、新たな王者の台頭は、同じ年に起きた。
その後、4ストロークは長く最高峰クラスの勝者一覧から姿を消し、2002年のMotoGP新規則時代に再び主役となった。そのころには排気量規定、素材、タイヤ、電子技術が変わり、戻ってきたのは新世代のマシンだった。MVが1976年に残した勝利は、それ以前の4ストローク時代の句点となった。
1977年シーズン、MVの従来のファクトリーによるレース活動は停止した。アグスタ博物館は、その決定をヘリコプター事業の拡大と二輪車業界の苦境という背景に位置づけている。企業の資源と方向性が移りつつあった。1982年には従来の二輪車生産事業も終わり、レースからの退場はより大きな変化の一部となった。
赤と銀のマシンが最後に先頭でゴールしたことは、この結末の最も心を動かす部分を残した。退場する時点でも、特定のレースで勝つ力はあったのだ。ただし翌シーズンも走り続けるかは、人材、開発、企業の方向を含む判断であり、最後のトロフィー一つで代わりが務まるものではなかった。
75冠を築いたライダーとクラス
MVは2025年の80周年発表で「75の世界タイトル」と表現し、その内訳をライダーズ38冠、メーカーズ37冠としている。複数の排気量クラスにまたがり、同じシーズンに異なる賞を獲得した場合も含む。これはブランドのGPでの栄誉を合計したものであり、75の異なるシーズンを意味するわけではない。
500ccという最高峰クラスのライダーズタイトルに限れば、数字は18となる。サーティース4回、ホッキング1回、ヘイルウッド4回、アゴスチーニ7回、リード2回だ。1958年から1974年が17連覇を成し、1956年はそれとは別のシーズンである。こう分けると、支配の長さをかえって理解しやすくなる。
アゴスチーニがMVで獲得した世界タイトルは13回で、500ccが7回、350ccが6回だった。その後ヤマハで両クラスに1回ずつ加え、個人通算15冠となった。MVへの貢献はアゴスチーニが最も大きいが、ほかのライダーはブランドの成功を、より早い時代や別の排気量クラスへ広げていた。
ウビアリの125ccと250cc、ヘイルウッドの500cc、そしてアゴスチーニが二つのクラスで使ったマシンが、MVの王者のガレージを形作る。どの種類にもファクトリーの開発投資と、それに合うライダーが必要だった。最高峰の18冠の外側には、ブランドの名声を支えた小排気量レースの広い世界がある。
1952年のサンドフォードから1974年のリードまで、この栄誉は20年以上にわたる。王者がライバルへ移籍することも、看板ライダーが二輪レースを去ることもあったが、後継者は勝ち続けた。複数のライダーそれぞれの絶頂期を、長い一続きの成功へつないだことこそ、MVの最もまれな達成だった。
レース活動から、今も見分けられる記憶へ
1992年、クラウディオ・カスティリオーニ率いるカジバがMVブランドを取得し、後にF4などの市販車によって、その名は再び存在感を取り戻した。ファクトリーレーサーが残した赤と銀の配色、音、王者たちは、新世代の市販製品のデザインや発信に取り込まれた。レースの勝利で築いた名声は、活動停止から何年たっても魅力を持っていた。
2025年の80周年記念モデルも、歴史的なエンブレムで初期のMVに敬意を表した。発表ではレースのタイトルと市販製品を並べて振り返り、二つの歴史を再び結びつけている。戦後の移動を支える小型二輪車から始まったものが、速さ、外観、造りを求めて選ばれる機械になっていた。
MVの最も重要な遺産は、ファクトリーとライダーを同時に見せてくれることかもしれない。マシンがなければスターは力をすべて示せず、機械を理解してレースを走り切る人がいなければ、どれほど精巧な機構も自力でタイトルを取れない。サンドフォード、ウビアリ、サーティース、ホッキング、ヘイルウッド、アゴスチーニ、リードは、それぞれ異なる仕事を担った。ライダーが替わっても技術者とメカニックが残した知識によって、次の世代はすべてをやり直さずに済んだ。同時に、新人の異なる反応が、その知識を過去への答えだけにとどめなかった。
その終わりが、それまでの成功を消したわけではない。競争が変われば、かつての王者は投資の方法を改めて決める必要がある。方向を変えて追い続けるメーカーもあれば、去るメーカーもある。ニュルブルクリンクでのMV最後の勝利は、到達した高さを示すと同時に、その高さだけでは未来を保証できないことも教えている。
赤と銀のマシンを振り返るとき、覚えておきたいのは排気音だけではない。より完全な風景は、20年以上にわたり人々がマシンを造り、走らせ、修理し、改良し続け、再現の極めて難しい連覇を築いた姿だ。伝説は実際に行われた仕事から生まれるのであって、その後の変化をすべて運命で説明することから生まれるのではない。
年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1945 | MVの二輪車事業が始まり、MV 98を発売 |
| 1952 | サンドフォードが125cc世界タイトルを獲得 |
| 1956 | サーティースがMV初の500ccライダーズ王者に。ウビアリは小排気量2クラスを制覇 |
| 1958—1960 | サーティースが350ccと500ccのダブルタイトルを3年連続で獲得 |
| 1961 | ホッキングが350ccと500ccの王座を獲得 |
| 1962—1965 | ヘイルウッドが500ccで4連覇 |
| 1966—1972 | アゴスチーニが500ccで7連覇 |
| 1968—1972 | アゴスチーニが350ccと500ccのダブルタイトルを5年連続で獲得 |
| 1973、1974 | リードがMVで500ccライダーズタイトルを2回獲得 |
| 1975 | アゴスチーニがヤマハで戴冠し、MVの最高峰クラスのライダーズ連覇が終わる |
| 1976 | アゴスチーニがニュルブルクリンクでMV最後の500cc優勝を記録 |
| 1977、1992 | 従来のファクトリーレース活動が停止。後にカジバがブランドを取得 |
タイトル記録
| 項目 | 記録と対象範囲 |
|---|---|
| 500ccライダーズ世界タイトル | 18回:1956年、1958—1974年 |
| 最高峰クラスのライダーズ連続タイトル | 17回:1958—1974年 |
| 500ccで王者となったライダー | サーティース4、ホッキング1、ヘイルウッド4、アゴスチーニ7、リード2 |
| 全クラスのライダーズ世界タイトル | 38回。MVの80周年発表の集計による |
| 全クラスのメーカーズ世界タイトル | 37回。ライダーズ38冠と合わせて75冠 |
| アゴスチーニがMVで獲得した世界タイトル | 13回:500ccで7回、350ccで6回 |
| 集計基準日 | 2025年シーズン終了時点。再現イベント、ほかの競技、現代の市販製品は歴史的なGP成績に含めない |
資料と関連文献
- マン島TT:1967年のアゴスチーニとヘイルウッドの対決
- MotoGP:アゴスチーニのライダープロフィール
- FIM:フィル・リード追悼資料
- FIM 2023年鑑:歴代世界王者
- MotoGP:ヘイルウッドのライダープロフィール
- ローレウス:アゴスチーニの人物紹介
- MV Agusta:80周年公式発表
- MV Agusta:ブランドの歴史
- アグスタ博物館:MVの二輪車の歴史
- マン島TT:公式大会史
- Motor Sport:サンドフォードの回顧インタビュー
- MotoGP:サーティースのライダープロフィール
- MotoGP:ウビアリのライダープロフィール
- ヤマハ:1970年代の企業史
- ヤマハ:1975年型YZR500(0W23)の所蔵車解説
画像出典:MV Agustaジャコモ・アゴスチーニ:15冠の先へ、自らの王者の時代をどう抜け出したか
15冠と122勝の先にある、ヘイルウッドとの争い、マン島をめぐる選択、そしてヤマハ移籍後の学び直しに迫る。
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