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  1. 「アゴ」になる前、彼はヒルクライムのライダーだった
  2. ヘイルウッドはチームメートであり、越えるべき基準だった
  3. 初の500cc王座でも終わらなかった二人の争い
  4. マン島のチェーンと、カナダの2位
  5. 5年で10冠、大きな優位があっても完走は必要だった
  6. TT10勝の後、もう参戦しないと決めたとき
  7. リードの戴冠で、「常に一番」の男が再び挑戦者に
  8. 世界GPの外で訪れた、デイトナ初優勝
  9. 350ccでは先に戴冠、500ccはもう1年待つことに
  10. 1975年、2位で王座をつかむ走り
  11. MVに戻り、最後のGP勝利もニュルブルクリンクで
  12. 15冠の記録と、ガレージに残り続けた男
  13. 年表
  14. キャリアの記録

1975年チェコスロバキアGP。フィル・リードがMV Agustaで先行していたが、アゴスチーニには追いつかなければならない理由はなかった。ヤマハのライダーは2位でゴールし、必要な得点を確保して、500ccで8回目、全クラス通算で15回目の世界タイトルを獲得した。

このとき乗っていたのは、彼をイタリアの英雄にしたMVではなく、日本製の2ストローク車だった。13個の世界タイトルをもたらしたファクトリーを離れるには、勇気だけでは足りない。新しいマシンを学び、敗北を受け入れ、新たな協力関係が結果を生むと信じる必要があった。王座が確定したのはゴール地点だったが、その決断は1年以上前になされていた。

アゴスチーニの最も目を引く記録は、15冠とGP122勝だ。だがキャリアに厚みを与えるのは、数字の間にある転機である。ヘイルウッドの隣で学び、やがて王座を争った。二つのクラスを支配しながら、危険なレースへの継続参戦を拒んだ。そして技術の時代をまたぎ、別のメーカーに初の最高峰クラスのライダーズ世界タイトルをもたらした。

01 / 本文

「アゴ」になる前、彼はヒルクライムのライダーだった

ジャコモ・アゴスチーニは1942年6月16日、イタリアのブレシアに生まれた。後にファンは彼を「アゴ」と呼ぶようになる。スタンドの横断幕にも、ガレージの呼び声にも収まる短い名だ。しかし世界選手権へたどり着く前には、若いライダーとして参戦の機会を探す日々があった。

初期の舞台は、欧州の公道ヒルクライムだった。ライダーは閉鎖された山道でタイムを競い、方向と勾配が絶えず変わる道を加速していく。コースを覚え、見通しの外にあるコーナーを判断し、限られた機会で路面を知ることが基本となる。アゴスチーニはそこで注目を集めてから、国際GPへ進む機会を得た。

1964年にはモリーニで250cc世界選手権に参戦した。出場は限られていたが、国際レースの世界に名を知られるきっかけとなった。MV Agustaは1965年シーズンにこの若手を迎え、350ccと500ccを任せた。隣にいたのは、すでに最高峰で連覇を続けるマイク・ヘイルウッドだった。

限られた250ccの参戦機会から、二つの大排気量クラスのファクトリーシートへ。変わったのはマシンの速さだけではない。日程、メカニック、調整の方法、世間の期待も高い水準になった。それまで自分の判断を頼りにしていた作業を、ファクトリーと協力し、異なるコースで繰り返せる仕事へ変えていく必要があった。

アゴスチーニがMVに入った時点で、ヘイルウッドは500ccを3連覇し、この年には4冠目も手にすることになる。新人はファクトリーマシンを得る一方、その時代で最も成功しているライダーと直接比べられた。自分の速さがどこまで届いているかは、ほどなくはっきり分かることになった。

02 / 本文

ヘイルウッドはチームメートであり、越えるべき基準だった

クラスやメーカーをまたいで成功したヘイルウッドは、新人にとって極めて価値のある基準だった。同じチームなら走り方を観察できるが、直接比較からも逃れられない。同じブランドのマークが同じ速さを保証するわけではなく、同じ色の革つなぎを着ても、経験が自動的に移るわけではなかった。

1965年、アゴスチーニは350ccと500ccの両方で優勝し、両クラスで年間2位となった。GP初優勝はニュルブルクリンクの350ccだった。新しい3気筒MVは実戦で可能性を示し、彼も学ぶだけでなく、ファクトリーに結果を持ち帰れることを証明した。

両クラスでの年間2位は、初のフルシーズンを十分に優れたものにし、次の目標も示した。350ccと500ccでは出力、重さ、レースの要求が異なる。一台で勝利を争い、すぐ別の一台に適応しなければならない。両方で優勝できたことは、その切り替えがすでに機能し始めた証拠だった。

ヘイルウッドが1966年にホンダへ戻り、アゴスチーニはMVのエースとなった。ガレージから強力なチームメートが一人減った代わりに、コースにはより直接的なライバルが一人増えた。引き継いだ席には優秀なマシンと人材に加え、ファクトリーの連覇を守る責任もあった。成長はさらに難しい段階へ入った。

伝説的なライダーの若い時代は、才能がすぐに経験を打ち破る物語として語られがちだ。アゴスチーニの歩みは、むしろ別の形に近い。まずファクトリーの機会に値することを示し、継続的な競争のなかで速さをタイトルへ変えた。ヘイルウッドとともに過ごした経験があるからこそ、後の争いは、単に二つの名前が同じメダルを追うものではなくなった。

03 / 本文

初の500cc王座でも終わらなかった二人の争い

1966年、アゴスチーニは最終戦までもつれた争いを制し、初の500cc世界タイトルを獲得した。一方、350ccはヘイルウッドが王者となり、アゴスチーニは再び2位だった。最高峰の王者になった同じ年、別のクラスではなお元チームメートを追っていた。

そのシーズン、二人は世界タイトルを一つずつ持ち帰った。MVは500ccで成功を続け、ホンダはヘイルウッドによって350ccを制した。アゴスチーニが初めて最高峰の頂点に立ったときも、元チームメートは別の戦線で先行していた。二人の争いは、まだ終わりから程遠かった。

1967年も、二人は500ccで争いを続けた。MVとホンダは異なる技術の道を進み、ライダーはそれぞれの長所を各地のコースで引き出す必要があった。制動、旋回、立ち上がりの加速、レース全体を通じた信頼性が、どれも勝敗を変え得た。間もなくマン島で行われるレースは、それらを一つに凝縮することになる。

ライダーは複数クラスの日程による負担も背負った。今日のMotoGP最高峰クラスの週末は通常、一種類のマシンを中心に組み立てられるが、当時のトップライダーは同じ大会で異なる排気量のレースに出場できた。体力と集中力を配分し直す必要があり、二つの成績表の裏には、実際に増える仕事があった。

一つの週末に二つの仕事があることで、ライダーとメカニックは限られた時間を適切に使わなければならなかった。一つのクラスを終えると、注意はすぐ別のマシンへ向く。コースは同じでも、ブレーキング地点、ギア、スロットル操作は車両に合わせて変える必要がある。後のダブルタイトルの連続獲得でも、彼はこの作業を繰り返し続けた。

04 / 本文

マン島のチェーンと、カナダの2位

1967年Senior TTは、アゴスチーニとヘイルウッドの争いのなかで最も鮮明な一幕だった。マン島のマウンテンコースは長く複雑で、二人の走りは沿道の計時地点で比べられた。現代の短いサーキットのように、観客の前で横に並んでコーナーへ入るたびに、順位関係が直接見えるとは限らなかった。

アゴスチーニは後半に12秒差を築いたが、5周目にチェーンが切れた。ウィンディ・コーナーは、勝利が彼の手を離れた場所となった。TT公式の回顧はこの故障を記録している。彼は惰性で戻るほかなく、ヘイルウッドが優勝して、その後長年破られないラップ記録を樹立した。

この勝利を失っても、年間王座が直ちに相手のものになったわけではない。500ccの争いは最終戦カナダへ続き、そこではヘイルウッドが勝った。二人は有効得点で並び、優勝も5回ずつ。最後は2位の回数で、アゴスチーニが3回対2回と上回った。

TT公式史によれば、ヘイルウッドのこの年の最速ラップは平均時速108.77マイルで、1975年まで記録として残った。この対決は、二つの異なる記憶を生んだ。マウンテンコースでヘイルウッドが示した速さと、シーズン全体の争いでアゴスチーニが守った王座である。

2位は伝説のなかで最も目立つ場面にはなりにくいが、この年は王座を決めた。勝てなくてもマシンを無事に持ち帰った一戦が、数カ月後に新たな価値を持つことがある。年間争いが報いるのは華やかな午後だけでなく、取れる得点を捨てなかった日々でもある。

5勝によってアゴスチーニはヘイルウッドと同じタイトル争いの線上に立ち、3回の2位が最後の同点比較を決めた。ゴール時には次善に見えた結果が、その年の最も重要な差になった。

05 / 本文

5年で10冠、大きな優位があっても完走は必要だった

ホンダが1967年シーズン後に撤退し、MVを取り巻く競争環境は変わった。1968年から1972年まで、アゴスチーニは350ccと500ccの両タイトルを5年連続で獲得した。それ以前の500cc2冠を合わせ、彼の名はすでに記録の最前列にあった。

ホンダの撤退で、MVは最も直接的なファクトリーのライバルを失った。残った参戦者のマシンと投入資源には大きな差があり、アゴスチーニとMVは明確な優位を得た。二人の王者と二つのメーカーが最終戦まで争った1967年の構図は、次第に、はるかに力の差が大きいレースの連続へ置き換わった。

優位があっても、ライダーの仕事は消えない。エンジンの問題、タイヤのグリップ低下、一度の判断ミスが、レースを終わらせ得る。二つのクラスで勝ち続けるには、走りに加えて体調と集中力を保ち、メカニックが異なるマシンを準備し、次の大会でも優位を生かせる状態にする必要があった。

1966、1967年の500cc2冠は、ヘイルウッドとの直接対決から生まれた。1968年からの2クラス計10冠は、別の参戦環境で獲得したものだ。前の時期には接戦で得点を守ることを学び、後の時期にはファクトリーの優位を何年も続けて年間の結果へ落とし込むことが求められた。

1972年末には、世界タイトルは12個になっていた。500ccで7連覇、350ccで5連覇である。堅固に見えた協力関係は、間もなくチーム内の競争と新技術の両方に揺さぶられる。この支配の終盤に、彼はトロフィーとは別の決断も下していた。

06 / 本文

TT10勝の後、もう参戦しないと決めたとき

アゴスチーニはマン島TTで10勝を挙げた。1966年Juniorの初勝利と、その後の複数回のSenior・Junior両レース制覇は、キャリアの重要な部分を成す。そこで大切な勝利を失った経験を持つ彼は、実際の成績によって、この難しいコースを乗りこなせることを示していた。

1972年、ジルベルト・パルロッティがマン島の125ccレースで亡くなった。強い衝撃を受けたアゴスチーニは、その年のSeniorを走り切って優勝した後、もうマン島ではレースに出ないと表明した。友人の死によって、同じ危険を世界タイトルに挑むための必須条件として受け入れ続けることを望まなくなった。

決断した時点でも、彼はマン島の勝者だった。マウンテンコースは勝利、栄光、国際的な名声をもたらしてくれたが、友人の死によって、参戦を続ける代償は受け入れられないものになった。まだ勝てる力があっても、そのキャリアの一部を終えることを選んだ。

当時のTTはまだ世界選手権の一戦だった。参戦拒否は、得点や賞金を手放す可能性があり、非常に権威ある伝統への異議でもあった。他のトップライダーも次々と近い立場を示した。マン島で世界選手権として最後に開催されたのは1976年で、1977年からは選手権対象ではなくなった。

10勝のTT記録は残り、1972年が最後の参戦となった。マン島との関係は、競争から記憶へ移った。若いころはそこで速さを求め、後には自身の名声を使って、同じ危険をタイトル争いの条件とし続けることに公然と反対したのである。

07 / 本文

リードの戴冠で、「常に一番」の男が再び挑戦者に

1973年、フィル・リードがアゴスチーニの500cc7連覇を止めた。二人ともMVであり、ブランドは引き続き勝ったが、個人の状況は変わった。アゴスチーニは350cc王座を守った。それはMVで13回目の世界タイトルであり、この協力関係で最後の世界王座のトロフィーとなった。

これほど多くの王座を得た人には、もう証明すべきことがないように、外からは見えたかもしれない。だがライダーが向き合うのは次のレースと翌年のマシンだ。過去の成績は今のライバルを遅くせず、新しい技術競争で最良の立場を自動的に与えてもくれない。

この年、ヤーノ・サーリネンがヤマハの2ストロークYZR500で最高峰へ進み、初戦と次戦で連勝した。その後、イタリア大会の250ccレースで命を落とし、ヤマハは一時ファクトリー参戦を停止した。そのプロジェクトは大きな可能性を示すと同時に、現実の重い中断も経験していた。

アゴスチーニは最終的にヤマハを選び、1973年12月に移籍が発表された。MVを去ることは、慣れ親しんだ技術環境と世間のイメージから離れることでもあった。13冠を支えたマシンから離れても、自分のレース能力を別の技術とチームの協力の上に築き直せると信じる必要があった。

新しい協力関係の結果は、あらかじめ書いておけるほど順調ではなかった。1974年もリードはMVで500cc王者となる。ヤマハのアゴスチーニは、一つのクラスで先に成功し、もう一つでは挫折を味わった。新技術へ向かう道には、丸1年の調整と待つ時間が含まれていた。

08 / 本文

世界GPの外で訪れた、デイトナ初優勝

1974年、テストコースでヤマハのレーシングマシンを走らせるアゴスチーニ画像出典:Yamaha Motor
1974年、ヤマハのテストコースでマシンを走らせるアゴスチーニ。画像は元の寸法で表示。

1974年3月、アゴスチーニはヤマハでの初参戦となるデイトナ200で、TZ750を駆って優勝した。米国の舞台と、それまで慣れていなかった競技形式での勝利は、新たな協力関係に力強い出発を与えた。メーカーを替えても、彼の経験が役に立たなくなったわけではなかった。

デイトナ200は世界GPとは別の米国のレースだった。ケニー・ロバーツら強豪が競うなかで、アゴスチーニはヤマハでの初戦を勝った。協力を始めたばかりの双方にとって、TZ750が持ち帰ったトロフィーは、ライダーと新しいマシンが素早くかみ合うことを示した。

2ストロークは、慣れた4ストロークと出力の反応やエンジンの働きが異なった。いつ変速し、コーナー出口でどう力を扱い、問題をどう技術者に伝えるかを、理解し直す必要があった。走行経験は判断の土台になるが、具体的な動作は新しいマシンに合わせなければならない。

デイトナの勝利後、彼は欧州のGPへ戻った。最初の成功は自信になるが、あらゆるコースと排気量クラスの課題を先に解決するわけではない。シーズンは続き、ファクトリーは、繰り返せる進歩と特定のレース条件でだけ生まれる優位を見分ける必要があった。

移籍の物語で見落とされやすいのは、この点だ。適応は一度済ませれば永遠に有効な作業ではない。世界タイトルを13回得た人物も、最初の勝利の後に学び続ける必要があった。ヤマハにもたらした最大の資源は知名度だけでなく、未知の機械を少しずつレースの道具にしていく能力だった。

1974年デイトナ200優勝後、トロフィーとヤマハのマシンとともに写るアゴスチーニ画像出典:Yamaha Motor
1974年デイトナ200優勝後、トロフィーとヤマハのマシンとともに写るアゴスチーニ。
09 / 本文

350ccでは先に戴冠、500ccはもう1年待つことに

ヤマハ所蔵の1975年型YZR500 0W23画像出典:Yamaha Motor
ヤマハ所蔵の1975年型YZR500(0W23)。

1974年、アゴスチーニは350ccで年間5勝を挙げ、ヤマハで世界タイトルを獲得した。通算14冠目であり、350ccでは7連覇だった。メーカーの変更で連覇は途切れなかったが、マシンはMVからヤマハに替わっていた。

500ccの結果は違った。2勝と2位1回で、年間順位は4位。リードがライダーズタイトルを守り、ヤマハはメーカーズタイトルを取った。移籍したばかりのライダーにとって、プロジェクトの競争力の証明であると同時に、個人の目標にはまだ距離があるという知らせでもあった。

負傷と機械的な問題が500ccのタイトル争いに影響した一方、350ccでは無事に王座を得た。二つの結果はヤマハに異なる仕事を残した。手にした優位を保ちつつ、最高峰のマシンを改良し続けることだ。アゴスチーニの経歴には14冠目が加わったが、500ccの8冠目はもう1シーズン待つ必要があった。

ヤマハの0W23は1974年ベルギーGPで初出場した。494ccの水冷直列4気筒2ストロークを搭載し、エンジンとフレームはさらに小型・軽量化され、カセット式変速機を採用した。この世代の開発にはリアの単一ショック構成も加わり、ファクトリーは新しいマシンを軸に翌年のタイトル争いへ備えた。

カセット式変速機は、競争力がコース上だけにあるわけではないことをよく示す。ギア比の交換や調整を効率よく行えれば、コースごとに異なる速度域へ対応しやすくなる。それ自体が追い抜くわけではないが、準備で使える選択肢を広げ、技術と走りを互いに支えた。

10 / 本文

1975年、2位で王座をつかむ走り

1975年フランスGPでゼッケン2のヤマハを走らせるアゴスチーニ画像出典:Yamaha Motor
1975年フランスGPでゼッケン2のヤマハを走らせるアゴスチーニ。

1975年、アゴスチーニは500ccで4勝と2位2回を挙げ、ついにヤマハに初の最高峰クラスのライダーズ世界タイトルをもたらした。貢献したのは彼一人ではない。チームメートの金谷秀夫はオーストリアで優勝し、その後日本へ戻って開発に携わり、マシンの進歩を支え続けた。

ヤマハ自身の回顧も、YZR500の競争力向上における金谷の役割を強調している。レースライダーとテスト開発の役割は、必ずしも固定的に分かれていなかった。GPで勝てる人物が、経験を工場へ持ち帰り、別のライダーのタイトル争いを助けることもある。王者の背後には、最終ランキングの一行目には表れない仕事があった。

オランダではアゴスチーニがバリー・シーンと最後まで争い、シーンが500ccのGP初優勝、アゴスチーニが2位となった。シーズン後半にリードが追い上げ、王座は最終戦チェコスロバキアで決まることになった。アゴスチーニは有利な状況で最終戦へ入ったが、それでも完走する必要があった。

得点状況では、リードが勝ってもアゴスチーニは7位以内なら王者になれた。彼は単独のレース勝利のためにリードを追って危険を冒し続けず、2位で終えた。シーズンの目標と、その日に可能な最高の結果は、もはや完全には同じではなかった。より大きな目標に足りる結果を選んだのである。

最終的な選手権の有効得点は、アゴスチーニ84点、リード76点だった。当時は規定数の上位成績だけを採用し、リードの総得点96点は一部の成績を除くと76点になった。最終戦の2位が、アゴスチーニに8点差での年間勝利をもたらした。

1967年に2位の回数で同点決着を制してから、1975年に2位で王座を確定するまで。二つのシーズンをつなぐのは、目の前の順位が年間全体で何を意味するかを見極める力だ。アゴスチーニは速さで名を上げたが、最後のタイトルには、いつ首位を追い続ける必要がないかを知る判断も含まれていた。

1975年ベルギーGPでゼッケン8のヤマハを走らせるアゴスチーニ画像出典:Yamaha Motor
1975年ベルギーGPでゼッケン8のヤマハを走らせるアゴスチーニ。
11 / 本文

MVに戻り、最後のGP勝利もニュルブルクリンクで

1976年、ヤマハは日本国外でのファクトリーによる直接参戦を停止したが、欧州の輸入元を通じ、優秀なライダーへファクトリー仕様車を供給し続けた。ヤマハ車は走り続けても、支援の形は変わっていた。王者になったばかりのアゴスチーニも、キャリア終盤で再び参戦体制を探すことになった。

1976年、アゴスチーニは再びMV Agustaにも乗り、350ccオランダ大会と500ccドイツ大会で優勝した。メーカーを替えることを、古いマシンを永遠に否定する義務とは捉えていなかった。キャリアの終わりにも、異なるマシンや参戦体制の間で機会を探し続けていた。

ニュルブルクリンクは、こうして特別な始まりと終わりの場所となった。1965年には350ccを制してGP勝利の歩みを始め、11年後には500ccで122勝目、最後の一勝を記した。排気量クラスは変わっても、同じライダーと赤と銀のMVが、再び同じゴールに現れた。

この勝利は、4ストロークの最高峰マシンの一つの時代にも幕を下ろした。MVは以後500ccGPで勝たず、アゴスチーニはすでにヤマハで2ストロークでも世界王者になれることを証明していた。旧時代を最も象徴する王者でありながら、新技術が頂点に立つ過程にも自ら加わったのである。

1977年が最後のGPシーズンだった。再びヤマハを駆り、500ccで2位を2回記録して年間6位となった。キャリアは最後の世界タイトルで止まらず、勝つことが難しくなってからも2シーズン続いた。長く頂点にいた人にとって、立場の変化を受け入れることも退場の一部だった。

その後は自動車レースを試し、やがてチーム運営へ進んだ。自分でゴールするのとは違い、ガレージで他のライダーの結果を待つのは新しい立場だった。かつてファクトリーで受けた支援は、今度はチームの仕事を理解する材料になった。マシンを整え、人員を配置し、ライダーがシーズンを戦い抜けるようにする仕事である。

12 / 本文

15冠の記録と、ガレージに残り続けた男

1982年からアゴスチーニはヤマハのファクトリーチーム運営に携わり、グレーム・クロスビー、ケニー・ロバーツ、エディ・ローソンらと仕事をした。ローソンは1984、1986、1988年にヤマハで500cc世界王者となり、アゴスチーニは別の立場でその勝利を支えた。

ローソンの1984年の初500cc王座は、ガレージの主役が新しい世代になったことを示した。アゴスチーニの知るタイトル争いの重圧を、今は別のライダーがコースで背負っていた。1984—1988年の5シーズンで3冠という実績は、運営者としてのキャリアにも明確な成果を与えた。かつてのライダーは、別の王者のチーム責任者になったのである。

チームマネージャーが向き合うのは、ガレージ全体の仕事だ。人、マシン、日程をかみ合わせ、ライダーごとの異なる要求にも対応する。アゴスチーニはMVの長年の経験に支えられ、後にヤマハで学び直した。運営の立場では、それらの経験が次の世代のライダーに役立つようになった。

個人の記録は世界タイトル15回で、500ccが8回、350ccが7回。GP122勝のうち最高峰が68勝、350ccが54勝となる。2002年以降のMotoGPと呼ばれる4ストローク時代には参戦していないが、最高峰クラスの通史を構成する人物である。

2025年シーズン終了時点で、これらの記録は長年変わらずに残っている。15冠のうち13冠はMV、2冠はヤマハで獲得し、最初の350cc優勝も最後の500cc優勝もニュルブルクリンクだった。その成績は支配の長さとともに、メーカーを替え、マシンに適応し直した転機も伝えている。

アゴスチーニを記憶すべき理由は、容易に近づけない15冠だけではない。最も慣れたファクトリーで13冠を得た後、改めて学ぶ道を選んだ。マン島でまだ勝てるときに、同じ危険を負うことをやめた。走り終えた後は、経験を別の協力関係へ生かした。その伝説には、トロフィーの数だけでなく、人間の選択が残っている。

年表

年出来事
19426月16日、ブレシア生まれ
1964モリーニで250cc世界選手権に参戦
1965MV加入。ニュルブルクリンクで350cc初優勝、350ccと500ccで年間2位
1966、1967500cc世界タイトルを初めて獲得、翌年も連覇
1968—1972350ccと500ccのライダーズタイトルを5年連続で独占
1972最後のTT参戦を終え、その後は出場せず
1973MVで最後の世界王座を獲得。年末にヤマハ移籍を発表
1974デイトナ200優勝、ヤマハで350cc世界王者に
1975ヤマハで500cc世界王者となり、通算15冠
1976MVで最後のGP2勝。最終勝利はニュルブルクリンクの500cc
1977最後のGPシーズン
1982年以降ヤマハのチーム運営に携わる

キャリアの記録

項目記録と対象範囲
全クラスのライダーズ世界タイトル15回
500cc最高峰クラス世界タイトル8回:1966—1972年、1975年
350cc世界タイトル7回:1968—1974年
MVでの世界タイトル13回:500ccで7回、350ccで6回
ヤマハでの世界タイトル2回:1974年350cc、1975年500cc
世界選手権GP優勝数122勝:500ccで68勝、350ccで54勝
TT優勝数10勝。世界選手権GP122勝に単純加算しない
1974年デイトナ200優勝。500cc世界選手権の一戦には含まれない
集計基準日2025年シーズン終了時点。国内レース、再現イベント、スプリントは歴史的なGP勝利数に含めない
資料と関連文献
レーシングマシンを囲む初期のMV Agustaのライダーとスタッフ画像出典:MV Agusta
物語のもう一つの側面 / 次に読む

MV Agusta:最高峰クラス18冠から、4ストローク時代最後の勝利まで

500ccライダーズタイトル18回、複数クラスにまたがるファクトリー体制、そして2ストローク時代の到来とともに迎えた最後の戦い。

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