章の目次を開く
  1. 米国のレースから世界の反対側へ
  2. 初のフル参戦シーズン、最初のレースで勝利
  3. 腕の力を抜くという、もう一つの制御
  4. レイニーの登場で、勝負に個人的な重みが加わる
  5. ホッケンハイム最終周:その前の追い抜きからたどる
  6. 6勝しても足りない理由
  7. 1993年前半:変化は既に始まっていた
  8. ミサノ以後、タイトルに消せない影が差す
  9. ドニントンでの最後の勝利:身体は既に多くの代償を払っていた
  10. 一つのトロフィーより34号車が記憶に残る理由
  11. 引退後も、マシンをうまく走らせるために
  12. あのレイトブレーキングを、もう一度
  13. 年表
  14. キャリアの記録

1991年ドイツGPの最終周、ケビン・シュワンツとウェイン・レイニーは、ホッケンハイムのスタジアム区間へ続くストレートに差しかかった。シュワンツはいったん前に出ていたが、レイニーがスリップストリームを使って抜き返した。通常のレースの理屈なら、続くブレーキング区間で、どちらが優位を最後の連続コーナーへ持ち込むかが決まるはずだった。

シュワンツは、通常の理屈どおりにはその争いを終えなかった。数年後の回想によると、レイニーのブレーキングは既に非常に奥深く、自分はまだそのスリップストリームの中にいたため、追突を避けるにはまず横へ出なければならなかった。強い制動でスズキは不安定に揺れた。修正しながらシフトダウンするうちに、通常は2速で回るコーナーで誤って1速まで落としてしまった。

それでも彼は追い抜きを成立させ、レースに勝った。その瞬間は34号車を象徴する最も有名な場面の一つになった。しかし、シュワンツをブレーキング地点をさらに奥へ延ばせる男とだけ捉えると、キャリアで最も重要な変化を見落とす。数多くの鮮やかな瞬間を、いかに世界タイトルへつなげるかという学びである。

01 / 本文

米国のレースから世界の反対側へ

1964年に米国テキサス州で生まれたシュワンツは、幼いころから二輪車に触れ、後にオフロードなどの経験を経てロードレースへ進んだ。1980年代半ばには米国のスーパーバイクで急速に注目を集め、ヨシムラスズキの重要なライダーとなった。量産車ベースのレーサーは、グランプリに進む前の最も重要な学びの場だった。

そのころから、彼は強い攻撃意欲を見せていた。ライダーは接近戦でラインを奪い合い、比較的重いマシンを扱い、限られた機会に追い抜きを決めなければならなかった。後に世界のグランプリ観客が知るシュワンツは、500ccマシンの上で突然生まれたわけではない。身体の使い方も勝負の判断も、それ以前の経験の跡を残していた。

グランプリ初出場は1986年のアッセンだった。1988年に500ccへフル参戦するまでに欧州のレース経験を多少積んでいたが、新しい日程、コース、相手への適応はなお必要だった。その難しさは「競技水準が高い」ことだけではない。生活と仕事の仕方全体が変わることにもあった。

米国のスーパーバイクと500ccグランプリは、同じ機械環境ではなかった。軽く繊細な2ストロークマシンは、パワー、グリップ、車体の動きを改めて理解することを求めた。シュワンツは経験を持ち込んだが、それを修正し続ける必要もあった。後に自らの有名な走法を振り返る際、繰り返し語ったのは単なる勇敢さではなく、身体とマシンをよりよく協調させる方法だった。

1985年、シュワンツはヨシムラスズキから初めてAMAスーパーバイクの全米大会に出場し、ウィロースプリングスで2レースとも勝った。1986年のデイトナ200では、エディ・ローソンに次ぐ2位となった。グランプリへ向かう階段は、地方大会での楽な勝利だけではなく、既に米国のトップライダーとの直接対決によって築かれていた。

1987年、米国スーパーバイクのタイトルをレイニーと争い、最後の6戦で5勝したものの年間2位に終わった。それは後のグランプリでの競争を予告するような結果だった。終盤にどれほど速くても、年間ポイントは直近の調子に合わせて並び替わるわけではない。早い時期に失った得点は、最後の集計にも残り続ける。

02 / 本文

初のフル参戦シーズン、最初のレースで勝利

1988年、シュワンツはまずデイトナ200で勝ち、続いて500cc開幕戦の鈴鹿に臨み、そこでグランプリ初勝利を挙げた。最高峰クラスへの初のフル参戦を始めたライダーとして、これ以上ないほど強烈な自己紹介だった。スズキの34号車は、王者たちが真剣に向き合うべき相手にすぐさま加わった。

ここには、よくある混同がある。鈴鹿は生涯初のグランプリ出場ではなく、初めて500ccへフル参戦したシーズンの開幕戦だった。それ以前の単発参戦も、同じキャリアの道筋にある。初勝利を正確に記しても、その衝撃は小さくならない。むしろ、それまでの学びが重要な一つの週末にどう結実したかが見えてくる。

同年、彼はウェットのニュルブルクリンクでも勝った。雨によってタイヤと路面の関係はつかみにくくなり、ドライでの操作を小さくするだけではなく、絶えず探り、調整する必要があった。シュワンツは後に、このレースでは何度も転倒しかけ、最終周にも危ない場面があったと振り返っている。勝ったという結果は、過程のすべてを完全に支配していたことを意味しない。

そこが、初期のシュワンツが観客を引きつけたところだった。レースには目に見える動きと変化があふれ、追い抜きが突然現れ、その直後に危険が迫ることもあった。彼の手にあるスズキは、しばしば予想以上の競争力を見せた。しかし、限界を押し広げるたびに、次も同じ結果が得られるという保証はなかった。

03 / 本文

腕の力を抜くという、もう一つの制御

シュワンツは、1986年のデイトナでの経験を記者マット・オクスリーに語ったことがある。高速でマシンが揺れると、彼は本能的に身体を緊張させ、腕でハンドルを固定しようとした。観察していたヨシムラのスタッフは、力みすぎることで揺れが収まりにくくなる可能性を指摘した。その後、彼は上半身を追加の硬い支えにするのではなく、マシンにある程度自由に動く余地を与えることを学んだ。

この話は、彼の走りで見落とされがちな面を説明している。映像のシュワンツは動きが大きく、マシンも常に暴れているように見えるため、力ずくで制御していると思われやすい。だが実際の経験は、ときには余分な入力を減らし、マシン自身が安定を取り戻すのを待つべきだと教えた。激しく見えるからといって、すべての関節に最大の力を込めるべきではない。

500ccの2ストロークマシンは軽く繊細だったため、この違いが非常に重要だった。タイヤ、サスペンション、フレームは荷重変化に対応しており、そこにライダーの動きが加わる。身体は操作者であると同時に、運動するシステム全体の一部でもある。硬すぎる入力は、本来なら回復できたはずのバランスを崩す可能性があった。

したがって、シュワンツの成長は、怖がる状態から怖がらない状態になることではなかった。多くの実際の反応を通じて、いつ制御を加え、いつマシンの動きを許すべきかを見分けることだった。その学びは、テスト、メカニックの観察、転倒後の振り返りから生まれることが多く、広く知られた一つの豪語よりはるかに複雑だった。

04 / 本文

レイニーの登場で、勝負に個人的な重みが加わる

34号車のスズキRGV500に乗るケビン・シュワンツ。スズキの1993年タイトル獲得を振り返る記録写真写真:bikes.suzuki.co.uk

シュワンツとレイニーのライバル関係は米国のレースで既に生まれていた。世界グランプリでは、それぞれスズキとヤマハを代表して再び上位を争った。互いを知っているため、見極めるのは相手のマシンだけでなく、何度も対戦した人物でもあった。どこで攻撃するのを好むか、最終周に何を残すかも、レースの一部になった。

レイニーはその後、1990年、1991年、1992年と500cc世界タイトルを3年連続で獲得した。同じ時期、シュワンツは多くのレースで勝ったが、王座には届かなかった。1990年の年間2位は既に世界最高水準の成績である。それでも、レイニーを直接打ち負かすことが多いライダーにとって、その差は特に明確だった。一つのレースで最速になる力と、シーズン全体で最も効果的に得点する方法は、完全には重ならなかった。

これは、2人のスタイルを単純に「衝動的」と「理性的」に分けられるという意味ではない。レイニーも激しく戦い、シュワンツもリスクを計算していた。本当の違いは一戦ごとの結果に表れる。どの週末に速さを得点へ変え、どの週末に事故、機械的な問題、身体の状態で得点を失い、それが数カ月後のタイトル争いをどう変えたのかである。

MotoGPによるシュワンツのキャリア回顧では、1993年を迎えるころには2人の私的な関係が改善していたとされる。長い対抗関係は消えていなかったが、敵意だけのものではなくなった。後に起きる悲劇は、このライバル関係の受け止め方を変えることになる。それ以前の2人は、毎週末、互いを倒そうとするプロのライダーだった。

05 / 本文

ホッケンハイム最終周:その前の追い抜きからたどる

あの有名なレイトブレーキングは、ストレートの終わりに突然生まれたわけではない。1991年ドイツGPについての後の回想によると、シュワンツはまずコース後半の高速右コーナーで優位をつくり、続くストレートとシケインでレイニーを抜き、立ち上がりをできるだけ良くしようと考えていた。当初狙っていたのは、一連の区間を組み合わせて得られる利益だった。

次に、レイニーがどちら側から反撃するかを考え、マシンを右へ置いた。しかし、スタジアムに入る右コーナーは通常なら左から準備するため、ストレートで守ることとコーナー進入の準備との間に矛盾が生まれた。左へ動くと、レイニーが右側からスリップストリームを使って抜き、位置関係が急変した。

ブレーキング地点で、シュワンツはまだレイニーのスリップストリームの中にいると気づいた。前のマシンが制動を始めると、距離は急速に縮まった。まずラインを外し、そのうえでできる限り速度を落とさなければならなかった。最初から決めた美しい動きを実行するだけではなく、計画が変わった後に続けて起こした一連の反応だった。

スズキは揺れ、彼はブレーキとクラッチを調整し、シフトダウンでは一段落としすぎた。立ち上がりでスロットルを開けると、エンジン回転の反応から誤りに気づき、2速へ戻して後ろを見た。観客が目にしたその振り返りには、後の本人の説明で具体的な意味が加わった。勝利を誇示するポーズではなく、レイニーが再び抜き返してこないかを確かめていたのである。

彼は勝った。偉大だったのは、完璧ではない動作の連続を間に合うように修正し、なお相手を後ろに抑えたことだ。最初から最後まで一点の誤りもない奇跡として描くと、最も見事な部分を失ってしまう。高速の勝負では、予想外のことが起きた時に状況を立て直す力も、最高水準の能力に含まれる。

06 / 本文

6勝しても足りない理由

シュワンツは1989年に6つのグランプリで勝ったが、年間タイトルは獲得できなかった。その後も、最も脅威となるライダーの一人であり続けた。観客にとって勝利は記憶しやすい一方、失ったポイントは異なる場所、異なる週末に散らばっており、同じように強い映像としては残りにくい。

得意なコースで鮮やかに勝ったライダーが、不利な週末にも同じ方法で勝とうとすることはある。マシン、タイヤ、身体の状態がそれを支えられなければ、その選択は失敗の確率を高める。タイトル争いでは、目前の最後のコーナーだけでなく、各週末をより長い時間の中に位置づける必要がある。

スズキとホンダ、ヤマハの性能関係も変化していた。シュワンツは長く、特定の区間やブレーキングエリアを使って、別の場所での差を埋める必要があった。高速コースでは、適切な時に追い抜きを終えられないと、その先の連続コーナーで優位を得る機会を失いかねないと、彼はインタビューで述べている。リスクは、個人の好みだけでなく、マシンが置かれた競争条件から生まれることもあった。

したがって、その後の進歩を「ようやく危険を冒さなくなった」と書くべきではない。勝つにはなお攻撃が必要で、問題は引き受ける価値のあるリスクをどう選ぶかだった。3位は、勝利を逃した悔しい結果であることも、その週末で最も価値ある結果であることもある。両者を見分けられてこそ、速さを年間ポイント表に残せる。

1993年にはポイント制度も変わり、上位3人には25、20、16点が与えられた。この差によって、2位や3位を続けることには現実的な価値が生まれた。2位は優勝から5点を失うだけだが、リタイアなら週末の得点を丸ごと失いかねない。表彰台の順位の差と、得点するかゼロかの差は、同じ種類の損失ではなかった。

もちろん、ライダーがすべてのコーナーでポイント表だけに従って走ることはできない。位置関係は変わり、相手は攻撃し、2位を受け入れるつもりでも前のライダーのミスから機会が生まれる。シュワンツに必要だったのは見分ける力だった。勝利を実現できる機会はいつ現れ、いつさらなる攻撃が、既に確保した結果を再び危険にさらすだけになるのか。

07 / 本文

1993年前半:変化は既に始まっていた

1993年、シュワンツはオーストラリア、スペイン、オーストリア、オランダの4戦で勝った。より重要なのは、開幕から9戦すべてで表彰台に立ったことだ。その継続性によって、得点は最も鮮烈な勝利だけに依存しなくなり、ライバルも彼が自ら優位を失うのを待つだけでは済まなくなった。

最初の9戦の表彰台には、優勝、2位、3位が含まれていた。2位や3位を受け入れることは、速さや闘志を失うことではなく、レースの目標がより全体的になることだった。ある日に相手が強ければ、得られる結果を持ち帰ることで、次戦も有利な位置から始められる。年間の争いが、ようやく彼の一戦ごとの能力と同じ方向に働き始めた。

この過程は、シーズン後半の事故に隠れやすい。1993年を振り返る際、レイニーがミサノで負傷した場面へ直接飛び、シュワンツがそれ以前に積み上げた仕事を見落としがちである。タイトルは事故の瞬間から形になり始めたのではない。前半の速さと安定性が、既に彼を本物の王座候補にしていた。

ただし、リードはシーズン全体の順調さを保証しなかった。英国でのリタイアとチェコでの不振によって、ミサノ前にはレイニーがポイントで逆転した。争いはなお開かれており、どちらにも結末は約束されていなかった。だからこそ、その事故は重かった。まだ続いていた、本来ならレースが答えを出すべき勝負を終わらせたのである。

開幕4戦で、この対決は徐々に展開した。シュワンツがオーストラリアの開幕戦を制し、続いてレイニーがマレーシアと日本で勝った。スペインではシュワンツが再びレイニーを破った。2人は交互に速さを優勝ポイントへ変えたが、もう一方もたいてい表彰台に残った。差を築くには自分が良い仕事をするだけでなく、相手が十分な得点を失う必要もあった。

オーストリアでの勝利はシュワンツの優位を広げ、オランダでは4勝目が加わった。他のライダーも争いに加わっていた。ダリル・ビーティー、ミック・ドゥーハン、ルカ・カダローラにも勝つ力があった。1993年は2台だけの閉じた勝負ではない。王座を争う2人は、厚みのある顔ぶれの中で、自らの位置を繰り返し守らなければならなかった。

08 / 本文

ミサノ以後、タイトルに消せない影が差す

1993年サンマリノGP、レイニーはミサノでの転倒で重傷を負い、その後ライダーとしてグランプリのキャリアを続けられなくなった。シュワンツにとって、それは最大のタイトルライバルが争いからいなくなる以上のことだった。長年、自分とともにレースの意味を形づくってきた人物が、突然サーキットを去ったのである。

最終的にシュワンツが世界チャンピオンとなり、年間248点に対してレイニーは214点だった。数字は公式の王者を確定させたが、2人の関係に起きた変化を表すことはできない。長く激しい敵意と見られていた対決は、この時もう一つの面を見せた。相手は、自分を測り、成長を促し、同じ職業人生を分かち合う存在でもあった。

事故の前にシュワンツは既に4勝し、多くのレースで安定して表彰台に立っていた。その後、レイニーの負傷がタイトル争いの終盤を変えた。前者はシュワンツが既に王者にふさわしい水準にあったことを示し、後者は2人がサーキットで年間の決着をつける機会を失わせた。

世界タイトルは、純粋に喜ばしい結末にはならなかった。MotoGPの公式人物紹介では、レイニーの事故が、待ち望んだタイトルから本来の喜びを奪ったと記されている。それまで何年も、2人は一つ一つの追い抜きを争ってきた。シュワンツがついに年間王者となった時、最も重要な相手は、もはやグリッドで彼に挑めなかった。

最終戦ハラマでは、スズキはなおメーカーズタイトルを追っていた。バロスが勝ったものの、ヤマハのガルシアが7位で得た9点によって、ヤマハは269対264で年間首位を守った。シュワンツのライダーズタイトルが、そのままスズキのメーカーズタイトルになったわけではない。「スズキが王者になった」と短く表現されがちなシーズンは、2つの順位表に異なる答えを残した。

この違いは、シュワンツ個人の達成も明確にする。彼が勝ち取ったのは、自ら継続して追い求めるべきタイトルであり、メーカー全体がすべての条件で優位だったことの証明ではない。他のライダーとともにつくる競争環境は、機会を制限する一方で、その速さを測る尺度にもなった。タイトルの価値はこの実際の競争から生まれる。他の結果まで同じ色に塗り替える必要はない。

09 / 本文

ドニントンでの最後の勝利:身体は既に多くの代償を払っていた

表彰の祝賀でトロフィーを掲げるケビン・シュワンツ。Suzuki Pressの記録写真で、具体的な大会は未確認写真:suzukipress.co.uk

シュワンツは1994年もディフェンディングチャンピオンとして走ったが、手首などの負傷が次第に影響するようになった。その年の英国GPは500ccでの最後の勝利となり、その週末にも転倒があった。勝利と身体の消耗は、別々の段階として現れたわけではない。

後の回想によると、予選で新品タイヤを使ってタイムを狙った際、タイヤの片側が必要な作動状態に達しておらず、再び加速すると激しいハイサイドに見舞われた。宙に放り出され、落下し、マシンが追ってくる危険にさらされる。それは当時のライダーが実際に向き合っていた危険だった。勝利の前にこの経験を置くことで、代償なしに鮮烈な走りを続けていたわけではないと分かる。

トップライダーの負傷は、痛みに耐えられるかどうかだけの問題ではない。制動、方向転換、スロットル操作、長時間の姿勢保持には、いずれも精密な動きが必要だ。十分に動かない手首は、マシンをどのように操れるかを直接変えてしまう。痛みと機能の低下は関連しているが、同じものとして扱うことはできない。

シュワンツは1994年を年間4位で終え、1995年シーズン序盤に引退を発表した。速さを完全に失うまで待ったわけではない。観客がまだ期待するライダーが止める決断をすることは、成績が自然に下がっていくより受け入れがたい場合がある。しかし、最終的にキャリアを判断するのは、身体への結果を引き受ける本人である。

10 / 本文

一つのトロフィーより34号車が記憶に残る理由

シュワンツは常にスズキと強く結びついていた。赤と白のマシン、34号車、特徴的な身体の動き、繰り返し再生されるいくつかの勝負。それらが、すぐに見分けられる姿をつくった。観客は各年のポイントを覚えていなくても、映像で彼を即座に認識できた。

引退後、その番号には特別な記念が与えられ、グランプリ史の重要な象徴となった。番号は記憶を保存できるが、人を攻撃しかできない図像に固定してはならない。1993年の安定性、メカニックとともに走法を探したこと、負傷に向き合って下した決断も、34号車の一部である。

500cc世界タイトルは1回であり、より多くの王座を持つライダーとすべての統計で同列に置くことはできない。しかし、スポーツへの影響力を測る尺度は一つではない。技術の方向を変えるライダー、長期の支配を築くライダー、そして勝負の緊張を特別に直接的な形で観客に感じさせるライダーがいる。

シュワンツは最後の類型に属するが、それだけではない。彼の世界タイトルは、鮮やかさと実効性が同じシーズンに両立できることを示す。初期の悔しさは、その両立がいかに難しかったかを説明する。毎年成功したわけではないからこそ、1993年の変化には本当の物語の重みがある。

11 / 本文

引退後も、マシンをうまく走らせるために

引退後にファンへサインをするケビン・シュワンツ。Suzuki Pressの2017年イベントニュースで提供された資料写真写真:suzukipress.co.uk

引退しても、シュワンツが二輪車から完全に離れたわけではない。ライディング指導、ブランドの催し、レース関連の仕事を続け、プロの競技で培った経験を他のライダーへ伝えた。そうした活動によって、遠い存在だった34号車は、一般の人が会い、話し、学べる人物にもなった。

後にスズキは、英国GP関連の催しに彼を招き、ファンとの走行やサイン会、かつてのレーサーとの再会を行った。その催しを1990年代の実戦風景として扱うべきではない。しかし、そこには別の継承がある。当時のタイトル争いを担わなくなったマシンも、世代の異なるファンがその時代を理解する助けになり続ける。

教えるには、レースとは別の能力が必要である。ライダーが経験から素早く行っていた動きを、他の人に理解できる手順へ分けなければならない。ラインをどう見るか、ブレーキをどう使うか、身体がなぜマシンに不要な乱れを加えるのか。「やり方を知っている」を「なぜそうするかを説明できる」に変えることは、もう一つの専門的な仕事だ。

そうした回想や指導の中で、シュワンツは自分が間違えた動作、判断を誤った状況、制御を失いかけた瞬間を進んで語る。そのことで伝説は、より役立つものになる。読者が見るのは決して失敗しない偶像ではなく、フィードバック、修正、経験の蓄積によって力を築いたトップライダーでもある。

2022年、スズキはロンドン・モーターサイクルショーでチャンピオンマシンを展示した。シュワンツの1993年型RGV500が、シーン、ルッキネリ、ウンチーニ、ロバーツ・ジュニア、ミルのタイトル獲得マシンと並んだ。異なる年代の車両を一緒に置くことで、スズキの最高峰クラスのライダーズタイトル7回が、異なるエンジン、車体、チーム環境にまたがっていたことが見えやすくなる。

保存されたレーサーは、映像が生む印象を修正することもできる。カウルは細く、ライダーはその限られた空間で身体を動かし続けなければならない。静止したRGV500は、あの有名な場面を受け止められるマシンには見えにくい。修復、保存、展示は、歴史に観察可能な実体を与える。写真だけでなく、後の世代が技術を理解する手がかりも残すのである。

12 / 本文

あのレイトブレーキングを、もう一度

引退後、GSX-Rでイベントに参加するケビン・シュワンツ。Suzuki Pressの2017年ニュース資料写真写真:suzukipress.co.uk
スズキの歴代チャンピオンマシンの展示。2022年ロンドン・モーターサイクルショーの予告写真で、手前には7号車のRG500などが並ぶ写真:suzukipress.co.uk

いま1991年ホッケンハイムの最終周を見直すと、映像は最初より豊かな意味を持つ。一人がもう一人より遅くブレーキをかけたというだけではない。その前のコーナーでの準備、ストレートで守る際の取捨選択、スリップストリーム内の距離判断、予想外の出来事の後の連続した修正が含まれている。

繰り返し見られるのは、その動きに計画と偶然が同居しているからでもある。シュワンツは最終周を当初の想定どおりには走らなかったが、状況が変わっても方法を見つけ続けた。身体の制御、機械への感覚、相手の判断が数秒のうちに連続して働き、スローモーションの静止画だけでは説明しにくい勝敗を残した。

シュワンツのキャリアで最も深い変化は、それらの有名な映像の間で起きた。攻撃する力を失ったのではなく、より長いシーズンの中にそれを置く方法を徐々に学んだのである。目の前の2位や3位を受け入れることが、最後に1位となるための道である場合もあった。その変化には、ホッケンハイムのブレーキング区間ほど鮮明な一枚の映像はない。それでも、最後には世界タイトルをもたらした。

25勝と1993年のトロフィーは競技の記録であり、レイニー、スズキ、負傷、引退、その後の仕事は一人の人間のキャリア全体を構成する。合わせて見ると、34号車は「度胸」だけを意味しなくなる。非凡な才能を持つライダーが、代償を払い、自分を調整し、ついにシーズンを制する方法を見つけるまでの姿も表している。

年表

年主な出来事
1964米国テキサス州に生まれる
1980年代半ば米国ロードレースとヨシムラスズキの体制で頭角を現す
1986アッセンでグランプリ初出場
1988デイトナ200優勝。500cc初のフル参戦シーズンに鈴鹿とニュルブルクリンクで勝利
1989500ccでシーズン6勝
1990500cc年間2位
1991ホッケンハイム最終周にレイニーを破る
19934勝、248点で500cc世界タイトル獲得
1994英国で最後のグランプリ優勝。年間4位
1995シーズン序盤に引退。34番が重要な記念の象徴となる

キャリアの記録

項目記録と集計範囲
最高峰クラスの世界タイトル1回、1993年500cc
最高峰クラスのグランプリ優勝25勝、すべて500cc時代
1993年シーズン4勝。開幕から9戦連続表彰台。合計248点
最初/最後のグランプリ優勝1988年日本・鈴鹿/1994年英国・ドニントン
主な協力メーカースズキ
その他の主な栄誉1988年デイトナ200優勝。グランプリ25勝には含まない
集計範囲世界タイトルとグランプリ勝利数は最高峰の500ccクラスで集計。デイトナ200は別記
資料と関連文献
2022年バレンシアGPの表彰台で喜ぶアレックス・リンス。隣にはブラッド・ビンダーとホルヘ・マルティン写真:globalsuzuki.com
物語のもう一つの側面 / 次に読む

スズキ:最後のレースでも勝てたのに、なぜ王者のチームは去ったのか

RG500からGSX-RRへ。最高峰クラスのライダーズタイトル7回と、2022年最終戦での勝利と別れ。

続きを読む · 約20分 →