章の目次を開く · 全19節
- 重要な節目
- 一、別のスポーツを選ぶ道もあった
- 二、スペイン王者という切符、そしてレッテル
- 三、トヨタにはドライバーが、彼には大きな舞台が必要だった
- 四、1000湖のジャンプの前に、見えない道を信じる
- 五、1990年の四勝、それぞれが解いた課題
- 六、1991年、勝利は増えても連覇には届かず
- 七、ペースノートが担う、王座のもう半分
- 八、1993年、王者が乗ったのは優位を失ったマシン
- 九、マクレー、チームメイトにして最後のライバル
- 十、トヨタ復帰のはずが、先にフォードへ
- 十一、1998年、最後の数百メートル
- 十二、三度目の王座がなくても、チームを王者に導く
- 十三、シトロエン、ベテラン王者と新世代が同じガレージへ
- 十四、二十六勝の最後はアルゼンチンで
- 十五、ペースノートとジャンプから砂丘へ、王者は再び新人になる
- 十六、四つのメーカー、四通りの学び
- 十七、最後の数百メートルの先にも、物語は続く
- サインツのタイトルとキャリア記録
重要な節目
1990年、フィンランドの1000湖ラリー。マドリード出身のドライバーがトヨタ・セリカを駆り、長年北欧勢が支配してきた大会を制した。カルロス・サインツとルイス・モヤが表彰台の頂点に立ったとき、変わったのは一戦の優勝者名簿だけではなかった。
当時のラリー界には、南欧勢はターマック、北欧勢はグラベルが得意という根強い分類があった。世界の舞台に出たサインツも、舗装路向きのスペシャリストと見られていた。しかし彼が求めたのは、割り当てられた数戦ではなく、世界選手権全体を争うことだった。
この物語の主人公は、後にF1ドライバーとなるカルロス・サインツの父である。WRCドライバーズ世界王座を二度、ラリーを二十六度制し、ダカールの自動車部門でも四勝を挙げた。ただしトロフィーだけを追えば、そのキャリアの最も緊張感に満ちた部分を見落とす。もともと得意でなかった道を学び続け、三度目のWRC王座が何度遠ざかっても、次のレースを探し続けたことだ。
一、別のスポーツを選ぶ道もあった
サインツは1962年4月12日、マドリードで生まれた。少年時代はサッカー、ボクシング、スカッシュなどに取り組み、十六歳でスペインのスカッシュ王者になった。運動能力はモータースポーツに入る前から表れており、ラリーは幼い頃からすべて決められていた進路ではなかった。
後年のDirtFishのインタビューで、彼は家族と限られたテレビ番組を通じてラリーを知ったと振り返った。当時スペインで見られる競技映像は少なく、繰り返し見るためにスーパー8のフィルムを買ったことさえあった。車載映像をいつでも呼び出せる現在とは違い、世界の一流がどう走るかを知ること自体、機会を探す必要があった。
1980年、マドリードのシャリマール・ラリーにルノー5で出場し、正式な競技活動を始めた。その後は地域大会、ワンメイク競技、国内選手権を経験した。法律を学んだ時期もあったが、最終的にはレースへ力を注いだ。家族や周囲の仲間の支えが、プロへの出発を支える重要な条件となった。
多種のスポーツ経験が、そのままグラベルでのブレーキングを教えてくれるわけではない。それでも選択は明確になっていった。彼は運転に時間を使い、小さな大会から実績を積むことを望んだ。後に「エル・マタドール」と呼ばれる男の職業人生は、小さな車と限られた出場機会、そして大量の練習から始まった。
二、スペイン王者という切符、そしてレッテル
1987年と1988年、サインツはフォード・シエラでスペイン・ラリー選手権を連覇した。慣れた舗装路は実績作りを助け、海外のチームにとっても、どの種類のイベントで起用できるかを判断しやすい材料となった。
ターマックのドライバーを探すチームには魅力的な経歴だったが、世界王者を目指す本人には制約にもなり得た。WRCは国も路面も異なる場所を巡る。自分に合う数戦だけに出場していては、年間を通じた王座争いに必要な経験を蓄えるのは難しかった。
1987年のポルトガルで、サインツはWRCに初出場した。DirtFishでの回想によれば、最初のステージでいきなり最速タイムを出し、その日のうちにもう一つのステージも制したが、比較的早い段階でリタイアした。この出発点には、初期のキャリアの二面性がすでにあった。注目を集める速さはあっても、一戦を完走する条件はまだ整っていなかった。
同年の英国RACラリーは、まったく異なる経験になった。後輪駆動車で雪に向き合い、タイヤの条件も理想的ではなかった。慣れた道での速さは、未知の路面では一から築き直す必要がある。サインツはこの年を学びの一年と呼んだ。目を引く一つのステージ以上に重要だったのは、習得すべきカレンダー全体に触れ始めたことだった。
三、トヨタにはドライバーが、彼には大きな舞台が必要だった
1988年、雨と霧に包まれたサンレモで競争力を示したサインツは、トヨタの責任者オベ・アンダーソンの目を引いた。1989年にトヨタ・チーム・ヨーロッパへ加入し、四輪駆動のセリカを駆って、ワークス体制に入る機会を得た。
後のインタビューで、彼はアンダーソンを第二の父のような存在と表現した。その評価には職業上の明確な背景があった。アンダーソンはマシンと参戦計画を与え、さまざまな路面で自分を証明しようとする挑戦も認めた。サインツが必要としていたのは、最も慣れた数戦にずっと割り当てられることではなく、自らの能力の幅を広げる機会だった。
四輪駆動のセリカは新しい道具であると同時に、新しい学習を求めた。それまでの後輪駆動フォードとは、加速、旋回、グリップを失う際の反応が違った。アクセルを踏んだ後の反応、車体の動き、路面からの情報を、あらためて結びつけなければならなかった。
年初は順調ではなく、何度かリタイアを喫した後、サインツは少しずつ表彰台へ届くようになった。フィンランド三位、サンレモ三位、英国二位で、年間順位は八位となった。なかでも注目すべきはフィンランドだった。高速グラベルで勝利に近づき、ターマック専門家という境界が揺らぎ始めていた。
四、1000湖のジャンプの前に、見えない道を信じる
フィンランドの難しさは、平均速度の高さだけではない。道は絶えず起伏し、頂上の先にコーナーが隠れる。空中にある車は、地上にいるときのようにすぐ進路を変えられない。飛び出す前の向きと速度が、着地後にどれほど選択肢を残せるかを決めた。
だからこそコ・ドライバーのペースノートが重要だった。ドライバーが見ているのは目の前の道だが、モヤの読み上げは次の頂上、コーナー、危険を先回りして運転に織り込む。情報が遅れれば対応する時間がなく、理解が食い違えば、一語ずつ聞き取れていても誤った操作につながり得た。
1989年の1000湖でサインツは一時首位に立ち、その後の追走中に横転しながらも三位で終えた。1990年に戻ると、前年のあと一歩を勝利に変え、同大会で初めて北欧出身者以外の優勝者となった。フィンランドは通常の一勝以上の証明となった。最も有利ではないはずだと周囲が考えた場所で、勝ったからだ。
サインツの回想では、ラリー前の事故のため痛みを抱えて走り、出走できるか疑ったほどだった。この細部は、何年も後の本人の語りによる。結果から確実に言えるのは、全ステージを走り切り、長く存在した地理的な壁を破ったことだ。以後ライバルは、どの道が彼の領分ではないかを決めるのではなく、どう倒すかを考えなければならなかった。
五、1990年の四勝、それぞれが解いた課題
フィンランドはサインツにとって1990年最初の勝利ではなかった。それ以前にギリシャのアクロポリスでWRC初勝利を挙げ、ニュージーランドでも勝っていた。シーズン末には英国RACも制した。この四戦が、最初の世界王座の大きな土台となった。
ギリシャは暑さ、石、機械の耐久性を突きつけた。ニュージーランドのグラベルはコーナーを滑らかにつなぐ走りを求め、フィンランドは高速の起伏での判断を、英国は複雑な森林区間でリズムを保つ力を試した。同じ操作をすべての道に当てはめるだけでは、この成績は説明できない。
サンレモ三位でサインツとモヤは年間王座を確定させ、その後の英国でも勝利した。トヨタにとって初めてのWRCドライバーズ世界王者であり、スペインにとっても初の栄冠だった。サインツ個人には、さらに具体的な意味があった。フルシーズンを争いたいという望みが、自分の能力を超えた要求ではないと、ついに証明したのだ。
この年はモンテカルロ、コルシカ、アルゼンチン、オーストラリアでも重要な結果を残した。勝利は王座への道で最も目立つ点であり、それ以外の週末が点と点を線にした。サインツの総合力は、どこで勝てるかだけでなく、勝てないときに何を持ち帰れるかにも表れていた。
写真:toyotagazooracing.com六、1991年、勝利は増えても連覇には届かず
1991年、サインツは初戴冠の年より一つ多い五勝を挙げたが、王座はカンクネンのものとなった。モンテカルロ、ポルトガル、コルシカ、ニュージーランド、アルゼンチンの勝利は路面への適応力を示した一方、リタイアと取りこぼしも年間結果に影響した。
レースでは「昨年より強い」を一つの数字だけで証明できるとは限らない。勝利が増える一方でリタイアも増え、ライバルは違う得点の積み方でシーズンを終えることがある。勝ったレースは消えないが、完走できなかったレースも勝利の写真で帳消しにはならない。
1992年、サインツは新世代のセリカST185に乗り換えた。サファリ、ニュージーランド、カタルーニャ、英国で勝ち、再び世界王者となった。二度の王座は異なるシーズンの展開から生まれ、彼は一度だけ急浮上した新星から、繰り返し王座を争える中心的な存在へと変わった。
英国最終戦の勝利はとりわけ重要だった。そこで二度目の王座が決まったからだ。後に英国は非常につらい記憶を残すことになるが、当初は何度も成功をつかんだ場所だった。一つの競技地がドライバー人生で持つ意味は、何年も後の別の一戦によって、すっかり書き換えられることがある。
七、ペースノートが担う、王座のもう半分
モヤは1988年にサインツと組み始め、二人で1990年と1992年のドライバーズ、コ・ドライバーズ王座を獲得した。フィンランドの頂上を越えるジャンプはペースノートの価値を示し、長いパートナーシップは、レッキでの判断を本番で正確に実行することを可能にした。
コ・ドライバーの役割はタイムコントロール、行程、規則にも及ぶ。ステージで築いた差も、誤った時刻のチェックインによるペナルティーで失われることがある。故障が起きれば、修理して続けられるかを二人で判断しなければならない。ドライバーとコ・ドライバーに別々の王座が授与されるのは、車内に互いを代替できない二つの仕事があるからだ。
八、1993年、王者が乗ったのは優位を失ったマシン
二度目の王座の後、サインツはトヨタを離れた。本人の公式サイトによれば、スポンサーのレプソルとトヨタの関係の変化が、ランチアを走らせるジョリークラブへの移籍を促した。王者の次の行き先は、どの車が最も速いかだけでは決まらなかった。
ランチアには輝かしい歴史があったが、1993年の活動は、かつてワークスが支配を続けた状態ではなかった。サインツは一勝もできず、年間成績は大きく落ち込んだ。ギリシャ二位は数少ない明るい材料であり、王者の肩書きが古いマシンの相対的な優位を自動的に取り戻すわけではなかった。
後の結果だけを見れば、この転機を明白な失敗と説明するのは容易だ。しかし当事者は、契約、スポンサー、空いているシートを同時に考えなければならなかった。避けられない事実は、ドライバーが技術を保っていても、マシンの開発と資源によって成し遂げられることは変わる、という点だった。
1994年、プロドライブが運営するスバルに加入し、再び王座争いを始めた。ギリシャで勝ち、年間を通じて複数の表彰台を得て、選手権二位となった。車とチームを替えても、サインツの競争力は失われなかった。新しい環境は、その速さをほどなく王座争いへ戻した。
九、マクレー、チームメイトにして最後のライバル
スバルでサインツはコリン・マクレーと出会った。二人の世間的なイメージは対照的だった。サインツは緻密で開発に長けた王者、マクレーは激しい攻めと鮮明な走りで注目される存在だった。しかし実際の争いは、性格のレッテルだけでは説明できない。二人とも世界王者に必要な速さを持っていた。
1995年、サインツはモンテカルロとポルトガルを制したが、肩の負傷でニュージーランドを欠場した。カタルーニャではスバルの二人が優勝を争い、マニュファクチャラーズの得点争いも重要局面に入っていた。上位の二台を守りたいチームは、最終日前日の終了後に順位維持を指示した。その時点でサインツが七秒先行していた。
マクレーはすぐには指示を受け入れなかった。最終日、ステージタイムではサインツを逆転したが、最終的にチームの要求に従ってタイムペナルティーを受け、二位へ下がった。サインツが地元の一戦を制し、二人は同点で英国最終戦に向かった。大きな論争を伴う勝利であり、チームの利益とドライバーの王座への目標が衝突する様子を露わにした。
DirtFishの回顧記事には、こんな方法で勝つことを求めてはいないという、当時のサインツの発言が残る。英国ではマクレーが勝って王座を獲得し、サインツは二位で、年間でも再び二位となった。一つの指示でチームメイト間の問題がすべて解決したわけではなく、シーズンの決着は最後に競技の場でついた。
十、トヨタ復帰のはずが、先にフォードへ
サインツは1996年にトヨタへ戻る予定だったが、TTEが技術違反で出場停止となり、計画は実現しなかった。そこでフォードと二年契約を結び、エスコートでWRCを続けた。他者の技術上の判断が、彼の職業人生の進路を変えた。
1996年のインドネシアでフォードに勝利をもたらし、1997年にはギリシャとインドネシアを制した。二年連続の年間三位は、変わる環境のなかでも上位を保ったことを示した。王座の数は増えなくても、勝つ力は消えていなかった。
1997年には新しいワールドラリーカー規定が導入され、開発の自由度が増し、ドライバーの道具も変わった。サインツは駆動系、車体反応、セットアップの選択肢の違いに適応し続ける必要があった。1990年のセリカで得た成功体験にとどまり、他の選手が同じ条件に戻ってくるのを待つことはできなかった。
1998年、よりコンパクトなカローラWRCを駆って、ついにトヨタへ復帰した。開幕のモンテカルロですぐに勝利し、復帰の幕開けとしては理想的に見えた。その後も二位を重ね、ニュージーランドで勝つと、再び世界王座に近い場所へたどり着いた。
十一、1998年、最後の数百メートル
英国最終戦でマキネンがリタイアし、サインツに三度目の王座の機会が訪れた。一戦に勝つ必要はなく、十分な順位を守ればよかった。全力で相手を追うときとは異なる重圧だった。余計な危険はすべて割に合わないように思えても、競技はなお集中力と必要な速さを求める。
最終ステージで、カローラのエンジンが故障した。フィニッシュまで数百メートルしか残っていなかったが、車は進めなかった。降りたモヤはヘルメットをリアウインドーへ投げつけた。サインツと三度目の世界王座の距離は、その森林の道で止まった。
テレビ映像のなかで、二人はコックピットを離れた。一年の仕事のほとんどを終えていたのに、最後のフィニッシュラインを越えられない。ポイントや順位の計算は、すべて意味を失った。王座はマキネンのものとなり、サインツはまたも二位だった。
この敗北は後に、彼を表すレッテルに近いものとなった。初期の歩みを知らない観客にとって、サインツはまず「ゴール直前に車が壊れた人」だったかもしれない。しかし同じドライバーは、すでにフィンランド、ギリシャ、英国で勝ち、二つの世界王座を得ていた。そのキャリアには、この逸冠を記憶する理由も、それを超えて続く理由もあった。
写真:media.toyota.co.uk十二、三度目の王座がなくても、チームを王者に導く
1999年、サインツに優勝はなかったが、表彰台を重ねてトヨタのマニュファクチャラーズ王座に大きく貢献した。スウェーデン、ポルトガル、ギリシャ、オーストラリアの二位と、サファリ、コルシカ、フィンランド、中国の三位が、継続的な得点を生んだ。
個人の目標に挫折しても、ドライバーはチームの仕事で重要な役割を果たせる。この年、トヨタの優勝はオリオールが中国で挙げた一勝だけだった。それ以上に、二台をそろって上位に置くことが王座を支えた。個人の勝利数がゼロでも、サインツの価値がゼロになったわけではなかった。
その後トヨタはWRCのワークス活動から撤退した。サインツは2000年にフォードへ戻り、フォーカスを駆って、再びマクレーと同じチームになった。直接王座を争った二人が、今度は別のチームのために共に働くことになった。レース界の関係は、契約、車、目標とともに変わり続ける。
サインツは2000年のキプロス、2002年のアルゼンチンで勝ち、どちらの年も年間三位となった。四十代に入ってなお、最高峰で勝てた。「もう時代が終わった」という見方は、まず順位表に残る結果と向き合う必要があった。
十三、シトロエン、ベテラン王者と新世代が同じガレージへ
2003年、サインツはシトロエンに加入し、マクレー、セバスチャン・ローブと重厚な布陣を組んだ。クサラWRCで隣に座ったコ・ドライバーはマルク・マルティで、モヤとの時代は終わっていた。その後のWRCの成果は、新しいコンビのものとして記されるべきだった。
ローブは後に競技を変える能力を育てつつあり、サインツは多くのチームと路面で培った経験を持ち込んだ。チームには将来の中心選手と、新しい計画ですぐに勝利を争い、安定して得点できる人の両方が必要だった。名前の大きさは布陣への注目を生むが、競技ではそれぞれが車をどこへ運ぶかが問われた。
サインツはトルコで勝ち、アルゼンチン、ギリシャ、コルシカなどでも重要な結果を得た。英国最終戦まで、世界王座の可能性を残していた。二度目の戴冠から十一年が過ぎても、経験豊かな脇役として走っていたのではなかった。
英国は再び挑戦を終わらせた。コースアウトでリタイアし、サインツは年間三位。ドライバーズ王座はペター・ソルベルグ、マニュファクチャラーズ王座はシトロエンが獲得した。三度目の王座を待つ日々は報われなかった。それでも争いに加わっていた事実は、車種も時代も越えて、なお最前線にいたことを示していた。
十四、二十六勝の最後はアルゼンチンで
2004年アルゼンチン、四十二歳のサインツは二十六勝目、そして最後のWRC優勝を挙げた。マルティとシトロエンを駆り、経験はレース後に出来事を説明するためだけのものではなく、本番で速さと結果に変わることを再び示した。
単発の復活だけで成り立ったシーズンではない。何度も表彰台に上がり、年間四位となった。メキシコ、キプロス、フィンランド、ドイツ、サルディニア、コルシカ、カタルーニャの表彰台には、彼らしい方法が続いていた。完全に自分向きの一戦を待つのではなく、異なる道で競争力を保つという方法だ。
2005年はトルコとギリシャの二戦だけに出場し、それぞれ四位と三位だった。WRC最後の参戦も表彰台で終えた。二十六勝、二位三十六回、三位三十五回、合計九十七回の表彰台が、長いキャリアの成果となった。
二十六勝は、誰より速く一戦を走り切った回数を伝える。残る七十一回の表彰台は、勝ったときだけ競争力があったのではないと示す。長年の移籍、車種変更、規則改定を経ても上位を保つ力は、次の挑戦へ向かう土台となった。
十五、ペースノートとジャンプから砂丘へ、王者は再び新人になる
通常のWRC参戦を終えると、サインツは長距離のラリーレイドへ移り、フォルクスワーゲンでダカールに挑んだ。2006年の初出場では四つのステージに勝ち、総合十一位。速さはすぐに表れたが、大会全体を走り切る方法は、なお学ぶ必要があった。
ダカールとWRCには共通する運転の基礎がある一方、競技の規模とナビゲーションの仕事は大きく異なる。何日も続く長距離区間では消耗を管理し、砂丘や複雑なオフロードではナビゲーションが勝負に占める割合も増す。レッキと精密なペースノートで築いたリズムを、そのまま移すことはできなかった。
2009年、首位を走りながら事故でリタイアし、目前にあった勝利をまたも失った。二度の世界王者であることが、その経験を軽くしてくれるわけではなかった。過去の名声が砂漠で力を発揮するのを待つのではなく、新しい競技における具体的な弱点に取り組み続ける必要があった。
2010年、サインツとルーカス・クルスはフォルクスワーゲンでダカールの自動車部門を制した。その勝利は、遠く1990年のフィンランドと響き合っていた。主要な経験の外側にあった環境で、再び競技全体の課題をやり遂げたのだ。
十六、四つのメーカー、四通りの学び
2018年、サインツとクルスはプジョーでダカールを制し、2020年にはMINIで再び勝った。2010年のフォルクスワーゲンを含め、自動車部門で三つのメーカーと優勝したことになる。マシンごとに異なる配置と特性は、運転と開発にも継続的な変化を求めた。
写真:© BMW AG / press.bmwgroup.com2024年、六十一歳のサインツはアウディRS Q e-tronで優勝し、勝利したメーカーを四つに増やした。この車は電気モーターで車輪を駆動し、内燃機関の発電でエネルギーを補う。レンジエクステンダーを備えた電動駆動のハイブリッドシステムであり、燃料はなお必要だった。ドライバーが向き合う技術課題は、初期のセリカから大きく離れていた。
年齢が結果を際立たせたのは確かだが、年齢記録だけでレースには勝てない。新しい車には開発、テスト、信頼性の改善が必要で、クルーは機械とナビゲーションのリスクを管理し、ドライバーも未知のシステムを理解し続けなければならない。勝利は、それらの仕事を合わせて成し遂げた結果だった。
サインツのダカール編は、WRCの二つのトロフィーに取って代わるものではない。一種類の路面の専門家にとどまらないという若い頃の要求が、異なるマシンや競技へ広がったことを示した。キャリア後半も、同じ問いを追って進んでいた。ほかにどんな能力を、新たに身につけられるだろうか。
写真:audi.com十七、最後の数百メートルの先にも、物語は続く
サインツの物語を1998年の英国の森で止めれば、三度目の王座まで数百メートルという無念だけが残る。動かなくなったカローラが表すのはその日であって、その後の年月すべてではない。1999年にはトヨタのマニュファクチャラーズ王座を助け、後にフォードとシトロエンでも勝ち、最後にはダカールへ向かった。
WRCの九十七回の表彰台と、四つのメーカーでのダカール優勝は、競争を続ける道が一つではないことを示す。乗り換え、再テスト、コ・ドライバーとの連携作り、異なる地形への適応は、結果に先立って行う仕事だ。二つのWRC王座は経験を与えたが、砂丘や長距離競技を慣れたものにはしてくれなかった。
三度目のWRC王座は、ついに訪れなかった。1995年のチーム内での逸冠、1998年の故障、2003年英国でのリタイアも、後のトロフィーによって消えたわけではない。それらの敗北を物語に残すことで初めて、次の出場が前の出場の単純な繰り返しではないと理解できる。
1990年のフィンランドで、彼は他者が国籍で引いた境界を越えた。何年も後にも、異なる車種と競技で学び続けた。あの最後の数百メートルを書き換えることはできなかったが、サインツは次のレースを、さらに遠くまで走らせた。
サインツのタイトルとキャリア記録
2025年末時点で、WRCドライバーズ世界王座二回、ダカール自動車部門総合優勝四回。ダカールは単独の大会における総合成績であり、合算して「WRC世界王座六回」と記すことはできない。
| 競技/部門 | 年または回数 | マシン/パートナー |
|---|---|---|
| WRCドライバーズ世界タイトル | 1990、1992 | トヨタ・セリカGT-Four。コ・ドライバーのルイス・モヤも同年に王座を獲得 |
| WRCラリー優勝 | 26勝 | 最終勝利:2004年アルゼンチン、シトロエン・クサラWRC/マルク・マルティ |
| WRC表彰台 | 97回 | 年間王座とは別に集計 |
| ダカール自動車部門総合優勝 | 2010 | Volkswagen Race Touareg/ルーカス・クルス |
| ダカール自動車部門総合優勝 | 2018 | Peugeot 3008 DKR Maxi/ルーカス・クルス |
| ダカール自動車部門総合優勝 | 2020 | MINI John Cooper Works Buggy/ルーカス・クルス |
| ダカール自動車部門総合優勝 | 2024 | Audi RS Q e-tron/ルーカス・クルス |
出典
写真:toyotagazooracing.comトヨタ:アフリカの耐久戦から九冠へ、ラリーで重ねた三度の再建
ドライバーの歩みからトヨタのワークス活動へ戻り、異なるタイトルと再建の各段階をたどる。
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