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  1. 最高峰のロッシの前に、二つの小排気量クラス王座があった
  2. NSR500からRC211Vへ:排気量を大きくするだけでは足りない
  3. 2004年のヤマハ移籍:最も説得力のある答えは初戦にあった
  4. 王座を失った後で:2008年、2009年の再登頂
  5. 二つの接近戦:ラグナ・セカとバルセロナ
  6. 2010年:身体が初めて「王座を争い続ける」を「まず復帰する」へ変えた
  7. ドゥカティでの二年間:伝説のライダーも答えを見つけられないことがある
  8. ヤマハ復帰:再び勝つことと、再び世界王者になることの間
  9. 2015年の五点差:成功に近づき、論争にも包まれた追走
  10. 最後の勝利から最後の一周へ:なぜ離れることはこれほど難しいのか?
  11. 46番のその先へ:経験を誰かの出発点に変える

黄色に染まるスタンドは、ライダーをよく知らない人にも、一つの番号を覚えさせる。46だ。ロッシの影響力には、こうした一目で伝わる面がある。色、ヘルメット、祝い方によって、彼はすぐに見分けられた。だが、その記号だけで止まれば、最も面白い部分を見逃してしまう。いつも見慣れた存在に見えるこのライダーは、実際には未知のマシン、未知のライバル、そして未知の自分と向き合い続けていた。

彼は125ccから500ccまで進み、最高峰がツーストロークからフォーストロークのMotoGPへ移る時代を体験し、ホンダとヤマハの両方で王座を獲得した。その後、ドゥカティでの年月は期待された成功をもたらさず、ヤマハへ戻ることも、もはや自動的に王者になることを意味しなかった。これらの章をつなぐことで、46番の物語は、長く勝ち続けたアイドルの話から、変化をどう受け止めるかを問うアスリートの話になる。

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最高峰のロッシの前に、二つの小排気量クラス王座があった

ロッシは1979年にイタリアのウルビーノで生まれ、タヴッリアで育った。1996年に125cc世界選手権へ入り、1997年にはアプリリアで王座を獲得した。250ccへ上がると、1999年にそのクラスの王座も獲得した。現在、この二つのトロフィーをまとめて「MotoGP王座」と呼べば、彼が実際にたどった成長段階を消してしまう。

小排気量のレースにも、高度な判断が必要だ。エンジンの力が限られるため、ライダーは特にコーナリング速度を保ち、立ち上がりで勢いをできるだけ失わないようにしなければならない。ライバルに接近したときは、いつスリップストリームを離れるか、いつブレーキをかけるかで順位が変わり得る。後の大排気量マシンの要求とまったく同じではないが、ライダーが戦うための手段をどう段階的に身につけるかを理解する助けになる。

2000年、ロッシはホンダへ移り、500ccのツーストロークマシンと正面から向き合った。このクラスのパワーとタイヤの制御は、新人に新たな要求を突き付けた。二シーズン目の2001年、彼は500cc世界王座を獲得した。それは旧時代の500cc最高峰選手権の最後の年であり、彼の経歴は二つの技術時代にまたがるものとなった。

2000年、ドニントンで行われたイギリスGPは、この成長の線が初めて最高峰の先頭集団へ本格的に食い込んだレースだった。ロッシはケニー・ロバーツ・ジュニアとジェレミー・マクウィリアムスを破って初優勝したが、その年の王者はロバーツ・ジュニアだった。一つの勝利と年間の結末を分けて見ると、当時のロッシがよりはっきり分かる。勝てることは証明したものの、爆発力のある新人から、シーズン全体を管理できる王座候補へ成長する途中にいた。

このレースの影響はポイントにとどまらなかった。当時、イギリスの観客はスーパーバイク世界選手権に強い関心を寄せていた。ロッシのGPでの勝利と鮮明なイメージは、この競技に覚えやすい新しい顔をもたらした。黄色いレーシングスーツ、46番、レース後の祝い方が、まず彼を見たいと思わせ、そこから彼の出るレースを少しずつ知るきっかけになった。アイドルは宣伝だけで生まれるわけではない。サーキットでの突破が、そうした記号に信頼できる核を与えた。

1997125cc王者アプリリアで初の世界王座
1999250cc王者アプリリアで二段目の階段を上る
2001500cc王者ホンダで、ツーストローク最高峰の最終年を制す
2002—2003MotoGP連覇ホンダでフォーストロークの新時代へ
出典:[1][2][3][4]
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NSR500からRC211Vへ:排気量を大きくするだけでは足りない

2002年、フォーストロークのMotoGP時代が始まった。ホンダのRC211Vはこの時期を代表する重要なマシンとなり、ロッシは2002年と2003年に連覇した。2001年の500cc王座を合わせれば、最高峰三連覇となる。ただし、その三つのトロフィーの下には、非常に大きなマシンの転換があった。

RC211Vは990ccのV型五気筒エンジンを採用し、それに合わせたフレームとリアサスペンションを備えていた。従来のNSR500のエンジンを単に大きくしたものではない。出力の出方、減速時の反応、車体とタイヤの働き方のすべてを、ライダーは理解し直す必要があった。ロッシはツーストロークで学んだ制御の力を、このフォーストロークの構成に合う動作へ変えなければならなかった。

ここから、モータースポーツで繰り返される問いも生まれる。王座はライダーによるものなのか、それともマシンによるものなのか。興味を引く問いだが、実際に両者を切り離すのは難しい。強いマシンがなければ、ライダーが継続して王座を争うのは難しい。開発し使いこなす人がいなければ、技術的な優位も結果になるとは限らない。ロッシの次の移籍は、この関係を別の角度から見る機会を与えた。

2003年オーストラリアGPは、「支配」という言葉より具体的な例になる。ロッシはレース中に黄旗違反で十秒の加算ペナルティーを受けたが、フィニッシュ時の差を十五秒以上へ広げ、加算後も勝利した。ここでは二つの時間を理解する必要がある。目で見えるマシン同士の間隔と、ペナルティー適用後に順位を決める実際の差は、同じ数字ではない。

これはルールを無視できたという意味ではない。むしろペナルティーは消えず、その代償を実際のラップタイムで埋め合わせなければならなかった。ホンダの引退回顧には、2003年の全十六戦で表彰台に上がったことも記されている。一度の驚くべき追走は、ある日曜日を説明する。一シーズンを通じて三位以内から落ちなかったことは、なぜホンダで三度目の王座を得たのかを説明する。個人の速さとマシンの競争力は、どちらの尺度でも作用していた。

ホンダ時代を振り返ると、三連覇には異なる二つの課題も含まれていた。まず成熟したNSR500の体系で同じ場にいるライバルを破り、次に技術転換の中にあるRC211Vを王座を獲るマシンへ仕上げた。前者は既存のマシンを掌握する力を試し、後者は新しいフィードバックへの適応を求めた。乗り換えとは過去の経験を消すことではない。何が今も役立ち、どの動作を練習し直すべきかを見分けることだった。

出典:[1][2][5][6]
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2004年のヤマハ移籍:最も説得力のある答えは初戦にあった

ロッシは2004年にヤマハへ加入した。それまでのM1は王座の基準となる存在ではなく、2003年には一勝もできないシーズンを過ごしていた。したがって、この移籍には明確な問いがあった。すでに証明した能力を、改善を必要とするプロジェクトへ持ち込めるのか。

最初の答えは南アフリカのウェルコムで出た。ポールポジションから出たロッシは、ホンダのビアッジと何度も首位を入れ替え、二人で後続を引き離した。ライバルが一斉にリタイアして転がり込んだ勝利ではなく、直接対決だった。ロッシはヤマハでの最初のGPを制し、「新しいメーカーで勝てるのか」という問いを、すでに起きた事実へ変えた。

だが、初戦の勝利で開発上の課題が消えたわけではない。後にロッシは、ヤマハで異なる仕様のエンジンを比較し、最高出力だけを求めるのではなく、より滑らかで感触をつかみやすい出力特性を選んだと振り返っている。一般のライダーには「力がある」ことが「速い」ことに見えるかもしれない。しかし限界で競うレースでは、その力をどこで、どれだけの確信を持って使えるかも問われる。

出力が穏やかだからといって、保守的な走りになるわけではない。マシンが傾いた状態でも、より早くリアタイヤへの信頼を築き、立ち上がりを安定して組み立て、ラインやライバルへ注意を向けやすくなる可能性がある。これはライダーのフィードバックの価値を具体的に示す。自らエンジンの設計図を描く必要はないが、各案がサーキットでどう違うかを、エンジニアへ正確に伝える必要がある。

王座が正式に決まったのはオーストラリアGPだった。ロッシはジベルナウと激しく争い、0.097秒差で勝利して、最終戦を待たずに2004年王座を確定させた。その年は最終的に九勝を挙げ、2005年には十一勝で連覇した。南アフリカは、メーカーを移ってすぐ一勝できることを証明した。年間の成績は、この協力関係が一度の華やかなデビュー以上のことを成し遂げられると証明した。

2004年にヤマハへ加入し、YZR-M1を駆るロッシ写真:ヤマハ公式
2004年シーズンのロッシとヤマハM1の資料写真。加入初年度の王座は、すでにレースを支配していたマシンで獲得したものではなかった。
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王座を失った後で:2008年、2009年の再登頂

2006年のバレンシアで、五連覇の歴史に終止符が打たれた。ロッシは予選でポールポジションを獲ったが、決勝のスタート後に後退し、五周目のブレーキングで転倒した。レースへ戻って追い上げを続けたものの、ヘイデンの王座獲得を止めるには足りなかった。ポールは一周の速さがあることを示したが、最終的な年間順位はシーズン全体と、その日に実際に走り終えた結果によって決まった。

2008年、ロッシはブリヂストンのタイヤへ切り替え、ヤマハは若いロレンソを迎えた。チームメイトが異なるタイヤを使うことで、開発と運営は複雑になった。ロッシは世界王座を奪還し、2009年にも連覇した。この二年間で重要なのは、単に「調子を取り戻した」ことではない。優位を失った後に、競争力のある戦い方全体を築き直せたことだった。

2008年のタイヤ変更も、押せばすぐ成功するボタンではなかった。開幕戦カタールでロッシは一時首位を走ったが、最後は五位にとどまり、同じチームのロレンソはミシュランで二位に入った。シーズンが進むにつれ、マシンとタイヤとの組み合わせが徐々に成熟し、日本GPで王座を確定させた。同じ競技環境でも、重要な技術要素を一つ変えると、ライダーはブレーキング、コーナリング速度、レースのリズムを調整し直さなければならない。

2005年アメリカGPでヤマハの記念カラーをまとったエドワーズとロッシ写真:ヤマハ公式
2005年アメリカGPで、ロッシとチームメイトのエドワーズは黄と黒の記念カラーを使用した。
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二つの接近戦:ラグナ・セカとバルセロナ

2008年ラグナ・セカでのロッシとストーナーの争いは、そのシーズンを代表する鮮明な場面の一つとなった。丘の上のコークスクリュー、何度も接近する二台、激しい攻防によって、レースは「ロッシが勝った」という短い言葉よりはるかに複雑だった。ライバルには速さがあった。ロッシは、相手が自由なペースで走る単独のタイムトライアルにさせない方法を見つける必要があった。

ヤマハでの本人の回顧は、このレースを最も重要な勝利の一つに挙げている。二シーズン続けて王座を逃したばかりのライダーにとって、当時の王者を倒すことには具体的な意味があった。最強の相手と正面から争える位置へ、再び戻ったのだ。双方の心理を創作する必要はない。サーキット上での順位の入れ替わりだけで、競争の接近ぶりは十分に伝わる。

2009年のカタルーニャでは、相手がチームメイトのロレンソに変わった。同じメーカーのマシンを使う二人の勝敗を、片方のマシンが有利だったからとだけ説明するのは難しい。ロッシは最終周の最終コーナーで追い抜き、ヤマハのライダーやエンジニアが繰り返し語るレースを制した。残りの距離は、もう一周待つには短すぎた。ブレーキングと進入の判断を、一度で成功させなければならなかった。

この二つの例は、「経験」を目に見えるものにする。経験とは、参戦年数が長いことだけではない。いつ位置を守り、いつラインを変え、いつ二度目の機会がもう残っていないかを知ることだ。それも必勝の保証ではない。ライバルも学ぶため、前回うまくいったベテランの手段が、次は先回りして封じられるかもしれない。ロッシの2008年と2009年の王座は、まさにこうした変化し続ける対決の中で得られた。

出典:[9][13]
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2010年:身体が初めて「王座を争い続ける」を「まず復帰する」へ変えた

2010年のムジェロでの負傷は、ロッシのシーズンを中断させた。長年、毎戦上位を争うことに慣れたライダーにとって、負傷が変えたのはポイントだけではない。練習計画、乗車時の身体的な負担、再び限界へ近づく自信を、すべて築き直す必要があった。目標も変わった。目の前でまず解決すべきなのは、再び一つのレースを完走する方法であり、王座争いへの復帰を語るのはその後だった。

ドイツGPで復帰した時には、すでに再び表彰台を争えたものの、最終コーナーでストーナーに抜かれ、四位で終えた。この結果は、単純な「王者の帰還」より多くの層を持つ。競争力は確かに残っていたが、グリッドへ戻ることと、再びレースを支配することは別だ。身体もライバルも、過去の王座という経歴を理由に要求を緩めてはくれなかった。

シーズン終了後、彼はヤマハを離れた。七年間の協力関係は最高峰の四冠をもたらすとともに、チーム内でロレンソと競い合った複雑な記憶も残した。その後のドゥカティへの挑戦は、絶対的な支配を続ける王者が気軽に色を変えた話ではない。負傷、チーム内の競争、キャリアの段階の変化を経た、大きな方向転換だった。

出典:[14][15][9]
07 / 本文

ドゥカティでの二年間:伝説のライダーも答えを見つけられないことがある

2011年、ロッシはヤマハを離れてドゥカティへ加入した。イタリア人ライダーとイタリアのメーカーという組み合わせは、周囲に大きな期待を抱かせたが、実際の結果は厳しかった。二シーズンで一勝もできず、表彰台は三回だけだった。過去の成功が、このマシンへ自動的に移ることはなかった。

この経験を、一人の失敗へ単純化すべきではない。マシンの出力、フレーム、タイヤの働き方、ライダーの習慣は相互につながっており、一つを変えると、ほかにも影響することが多い。以前にホンダとヤマハの両方で王座を獲ったことは、どんな技術体系でもすぐ同じ感覚を見つけられる証明にはならなかった。

なぜ今回は、2004年のヤマハでの成功を再現できなかったのか。少なくとも、便利すぎる説明を一つは退けられる。世界王者であることは、マシンの特性を無視できる能力ではない。フロントの感触、クリッピングポイントへ向かう姿勢、立ち上がりのグリップ、思い描いたラインに沿って走ってくれるかどうかは、すべて安定して限界へ近づけるかに影響する。一つの問題を解決しても、ほかが自動的に消える保証はない。

結果から逆算して「最初から無理だと分かるべきだった」と言うのも、公平ではない。移籍時、人々は彼が二つのメーカーで王座を獲ったと知っていたが、新しい組み合わせがどこへ至るかを予知することはできなかった。二年で三回の表彰台という結果は、計画が目標を達成しなかったことを示す。それだけで、一人のライダーやエンジニアが全責任を負うべきだとは証明できない。失敗を認めながら唯一の原因を創作しないことが、この経験を扱う適切な姿勢だ。

出典:[2][14]
08 / 本文

ヤマハ復帰:再び勝つことと、再び世界王者になることの間

2013年にヤマハへ戻ったロッシを待っていたのは、変化したパドックだった。ロレンソはすでにここで世界王座を獲得し、マルケスがホンダの新人となっていた。以前のように、そのまま主導権を引き継げる状況ではない。なじみのあるマシンへ適応し直し、より若いライバルと限られた機会を争わなければならないことも受け入れる必要があった。

アッセンでの勝利は長い未勝利期間を終わらせ、まだ勝てることを証明した。しかし、一勝と年間を通じた競争力の間には、予選順位、異なるサーキットでの走り、安定した得点という隔たりがあった。表彰台の頂点へ戻ったことは、続ける理由を与えた。その後の年間順位が、その競争力をどれだけ維持できるかを試すことになる。

2014年、2015年、2016年と三シーズン連続で年間二位になったことこそ、この復帰の本当の重みだった。かつての王者が時々有利な条件に恵まれたのではなく、なお長く最高水準の争いに加われていた。ただし、「まだ王座を争っている」ことは、わずかに届かない結末を受け入れることでもある。経験も応援する人々も、彼に代わって二位を一位へ変えることはできない。

出典:[14][2]
09 / 本文

2015年の五点差:成功に近づき、論争にも包まれた追走

2015年、ロッシとロレンソは王座争いを最終戦まで持ち越した。マレーシアGPでの出来事による処分を受けたロッシは、バレンシアの最後尾、二十六番手からスタートし、ロレンソはポールポジションから出た。同じメーカーのマシンを駆るチームメイトでも、開始時に直面した課題はほぼ正反対だった。

ロッシは一周目に十五位へ上がり、その後も中団を抜けて、最終的に四位まで進んだ。しかし前の三人はすでに差を広げており、追い上げの過程でタイヤにも代償が生じていた。自分の順位だけで結末を変えることは、もうできなかった。ロレンソは背後のホンダ二台を抑えて優勝し、五点差で年間王座を獲得した。

終盤戦の論争によって、このシーズンは長くファンの議論に残った。ロッシは失望を公に語ったが、正式な結果はロレンソが王者、ロッシが二位のままだった。全クラス通算の十冠目へこれほど近づいたことが、悔しさをさらに強めた。同時に、三十代のライダーが、最後の決勝日まで王座の行方を分からないままにできたことも示している。

この決戦は、追い上げの現実的な代償も示した。一人を抜くには、ライン変更、ブレーキを遅らせること、再加速が必要になる場合があり、どの動作もタイヤと時間を使う。二十六位から四位への上昇はすでに大きな前進だが、同じ速さで上位三人との差を埋め続けられることを意味しない。順位変動の最も華やかな部分と、実際に王座を決める差は、時にサーキットの別々の場所で生じる。

2016年カタルーニャGPで優勝したロッシ写真:ヤマハ公式
2016年、バルセロナの表彰台に立つロッシ。ヤマハへ戻った後も勝利を挙げ、三シーズン連続で年間二位となった。
出典:[2][16][17]
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最後の勝利から最後の一周へ:なぜ離れることはこれほど難しいのか?

2017年のアッセンで挙げた最後の最高峰優勝は、決して楽ではなかった。終盤にはペトルッチが争いを挑み、路面は雨粒の影響も受けた。後にペトルッチは、加速の優位を使って前へ出たが抜き返され、最終周には周回遅れにも遭遇したと振り返った。一定のラップタイムで最後まで巡航するのではなく、グリップを判断しながら相手にも対処しなければならないレースだった。

それがロッシの最後の最高峰GP優勝だったと分かるのは、後になってからだ。レース当時、彼が求めていたのはそのシーズンの一つの結果であり、サーキットで自らのキャリアの結末を書いていたわけではない。歴史を振り返ると、どの場面にも予兆を読み込みやすいが、実際のレースにはそうした合図はない。だからこそ、最後の勝利と最後の参戦は、分けて覚える価値がある。

2017年のアッセンは、ロッシのキャリア最後のGP優勝となった。その後も表彰台や素晴らしい対決はあったが、次の勝利は訪れなかった。長年彼を追ってきた人々は、もっとゆっくりとした、気づきにくい変化に向き合い始めた。見慣れた46番はまだグリッドにいるが、レースの主役を担うのは、次第に次世代のライダーになっていった。

2021年、彼はヤマハのサテライトチームへ移り、バレンシアでロードレース世界選手権のキャリアを終えた。別れの時に残した記録は、最高峰89勝、表彰台199回だった。125ccと250ccも含めれば、GP通算115勝、世界王座九回となる。どちらの数字も正しく、答えている問いが異なるだけだ。

長いキャリアの終盤は、レースを離れることがボタン一つで済むものではないと、観客にも見せた。競技は一人の全日程を形づくってきた。練習、移動、テスト、スタートを待つ時間まで、すべてがレースを中心に回っていた。ロッシは最高峰を退いた後もパドックを去らず、次世代のライダーを育てる活動へ、ますます力を注いだ。

2021年バレンシアでGPに別れを告げるロッシ写真:ヤマハ公式
2021年バレンシア。ロッシがGPのキャリアに別れを告げた。ヤマハの歴史写真集には、サーキットと黄色いスタンドが同じ画面に収まるこの場面が残されている。
集計対象世界王座優勝回数
最高峰クラス:500cc+MotoGP789
全クラス:125cc+250cc+500cc+MotoGP9115
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46番のその先へ:経験を誰かの出発点に変える

VR46ライダーズアカデミーは2014年に正式に設立された。設立発表で挙げられた若手には、バニャイア、モルビデリ、ルカ・マリーニらがいた。計画はライディング練習だけでなく、体力、心理面の準備、技術支援、キャリア形成にも及んだ。若いライダーが本当に世界選手権のグリッドへ立つには、一周の速さ以上にはるかに多くのことへ対処する必要がある。

この変化は、ロッシの物語の後半に別の尺度を加えた。ライダーとしての成績は、自分のフィニッシュラインで決まった。育てる側としての仕事は、他人の成長を通じて、ゆっくりと見えてくる。スタンドは今も46番のために集まれる一方、パドックのより若い名前が、彼の育成体系と結び付き始めた。

最高峰七冠は、ロッシを歴史上最も重要なライダーたちの一人に位置づけるのに十分だ。しかし、その歩みを読み終えて、より覚えておきたいのは、七冠の間と、その後に起きたことだ。メーカーの変更、優位の喪失、かみ合わない組み合わせ、復帰、そして最後に経験を他人へ渡すこと。黄色が引退とともに消えなかったのは、この物語がもはや、現役で走る一人の王者だけのものではなくなっていたからだ。

アカデミーの設立発表は、走行練習以外の支援も列挙していた。心理面の準備、体力、キャリア形成のすべてが計画に含まれていた。これによって「経験の継承」は、引退した王者の一言ではなく、具体的に観察できる仕事になる。若者に速さがあっても、長期の練習をどう組み立て、チームとどう対話し、悪い週末の後にどう再出発するかを、すでに理解しているとは限らない。

ロッシ個人のレースキャリアには明確な終点があるが、アカデミーやチームの仕事を同じ成績表で測る必要はない。若いライダーの成績は、その支援関係の価値を示し得るが、本人たちの努力と判断をすべて師の手柄にすべきではない。黄色い46番がパドックに残る方法は、機会と経験を提供し、別の人々が自分の名前でレースを続けられるようにすることだ。

出典:[21][18]
出典を見る · 21件
  1. ヤマハ:2010年までのロッシの経歴
  2. MotoGP:バレンティーノ・ロッシのライダープロフィール
  3. MotoGP:2000年ドニントン、最高峰初優勝
  4. MotoGP:2000年イギリスGPとロッシの初期のファン
  5. ホンダ:ロッシ引退回顧、NSR500とRC211Vの時代
  6. ホンダ技術資料:RC211Vの990cc V5エンジンと車体構成
  7. ヤマハ:2000年代のGP史
  8. ヤマハ:2004年南アフリカGP、移籍初戦で優勝
  9. ヤマハ:ロッシが振り返る2004—2010年、エンジン選択と名勝負
  10. ヤマハ:2004年オーストラリアGPでの王座獲得発表
  11. ヤマハ:2006年シーズンの記録とバレンシアでの敗戦
  12. ヤマハ:2008年シーズンとタイヤ変更
  13. ヤマハのエンジニア:ウェルコム、ラグナ・セカ、バルセロナ
  14. MotoGP:ロッシのキャリア回顧
  15. MotoGP:2010年ドイツGPで復帰、最終コーナーで表彰台を逃す
  16. FIM:2015年バレンシア最終戦と王座
  17. FIM:2015年マレーシアGPでのロッシへの処分決定
  18. FIM:ロッシがMotoGP殿堂入り
  19. MotoGP:マルケスとロッシの七冠の統計
  20. MotoGP:ペトルッチが振り返る2017年アッセンの終盤
  21. VR46:2014年ライダーズアカデミー正式設立
2005年アメリカGPでヤマハの記念カラーをまとったエドワーズとロッシ写真:ヤマハ公式
物語のもう一つの側面 / NEXT READ

ヤマハ:王者が入れ替わるなか、速く走る勇気を与えるマシンをどう造るのか?

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