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  1. WRC以前、アフリカの長い道を走ったプジョー
  2. 重要な小型車が先にあり、その名を持つ競技車が続いた
  3. 1984年、まず勝てることを証明し、それから年間王座へ
  4. サロネンの1985年、速さをダブルタイトルへ
  5. 1986年、最後はコースの外で決まった王座
  6. グループBの後、経験は別の道へ
  7. 206はいかにして全長4メートルの条件を満たしたか
  8. 2000年、最終戦の2位がもたらした世界王座
  9. 3連覇には、一人のスターだけでは足りなかった
  10. 2002年、早期戴冠を決めた優位はどれほどだったか
  11. 307には速さがあった。それを結果に残すのが難しかった
  12. 最後のシーズンより先に決まっていた撤退
  13. 年表
  14. タイトル記録

2002年10月6日、ラリー・ニュージーランドが終わった。マーカス・グロンホルムとハリ・ロバンペラが1位と2位を占め、プジョーは2戦を残してドライバーズとメーカーズの両タイトルを確定した。銀色の206 WRCは3年連続となるメーカーズのトロフィーを早くもフランスへ持ち帰り、十数年前の、同じように小さく獰猛だった205 T16を思い出させた。

2台の間にあったのは、右肩上がりの一直線ではない。プジョーはグループBの突然の終焉を経験し、世界ラリーの頂点での戦いを離れ、国内戦で組織を維持した後、新規則に合う王座獲得の方法を組み立て直した。その後には、速くても安定して勝てない307の時期があり、最後はグループの競技予算縮小によってファクトリー活動を終えた。

2025年末時点で、プジョーのWRCメーカーズタイトルは5回。その獲得年は1985—1986年と2000—2002年に集中している。この二つの絶頂期を理解するには、マシンの速さだけでなく、なぜ企業が参戦し、どうドライバーを組み合わせ、まだ勝てる時点でなぜ去ったのかも見る必要がある。

01 / 本文

WRC以前、アフリカの長い道を走ったプジョー

プジョーのラリーの伝統は、吸気口だらけのミッドシップ車から始まったのではない。404や504というセダンが、まずアフリカの長距離競技で名を築いた。404は1963年と1966—1968年に、東アフリカ・サファリラリーで計4勝した。世界ラリー選手権の創設は1973年であり、それ以前の勝利はブランド史には属しても、すべてをWRC記録には算入できない。

当時の長距離競技では、信頼性の意味が極めて明快だった。閉鎖区間で相手より速いだけでなく、悪路、長時間の運転、限られた修理資源に耐えなければならない。エンジンが力を出せても、足回り、駆動系、車体の結合部に問題があれば、速さの優位は道端での待機に変わる。大きなセダンの成績は、丈夫さという世間のイメージに強く結びついた。

504もその路線を継いだ。プジョーの公式回顧は、1975年のサファリ、モロッコ、バンダマ、1976年のモロッコとバンダマでの勝利を記している。各大会の選手権上の位置づけは同じではないが、アフリカの道での競争力をそろって示した。1978年にはジャン=ピエール・ニコラが504 Coupé V6でサファリを制し、WRC時代にも重要な一勝を残した。

この時期の重要性は、プジョーが過酷な競技への経験を得るとともに、ライオンの徽章が長い道程を走り切る力と結びついたことにある。後の205 T16の軽快さ、四輪駆動、ターボは504と大きく違って見えるが、目指すものには共通点があった。潜在性能が成績になるのは、車をゴールへ運んでこそである。

404から205への変化は、ブランドが競技に求めるものの変化でもあった。初期の勝利は市販車の過酷な環境への強さを示した。グループBに入ると、プジョーは国際競技で最も目立つ技術と速さの位置を求めた。二つの歴史は互いを説明できるが、同じ競技思想が変わらず続いたと書くべきではない。

02 / 本文

重要な小型車が先にあり、その名を持つ競技車が続いた

1981年10月、ジャン・トッドがプジョー・タルボ・スポールを設立した。2年後の1983年2月24日、一般向けの205が発売された。当時のプジョーは、多用途で新しい顧客を呼べる小型車を必要としていた。ジャン・ボワイヨがその製品方針を推し進め、ジェラール・ヴェルテール率いる社内デザインチームが、コンパクトで個性的な形を与えた。

市販の205と205 T16は、名と人々が識別しやすい輪郭を共有したが、機械配置は大きく異なった。通常モデルは価格、空間、日常性を優先し、T16はグループB規則に沿ってターボエンジン、四輪駆動、競技用構造を組み合わせた。外観が似ているからといって、店頭の普通の205が競技塗装だけを外したレーサーというわけではない。

それでも、そのつながりには商業的な価値があった。小さなプジョーが砂利道、雪道、峠を駆け抜ける姿は、競技の印象を日常の道路へ持ち帰らせた。競技部門は主力商品の名を借り、商品側は通常の広告では再現しにくい実演を得た。ただし勝利を支えたのは専用に設計・準備した競技車であり、市販車の販売台数そのものではなかった。

トッドの仕事は、単に大馬力の試作車を造ることではなかった。技術開発、ドライバーの反応、整備、後方支援を合わせ、1シーズンを支える必要があった。ラリーの条件は変わり続ける。テストコースで速いだけでは、国や路面が変わり、整備時間も限られるなかで機能し続けることを証明したことにはならない。

だから205 T16は、商品刷新と競技組織の両方から理解すべきだ。突然の奇跡でも、市販車の性能パンフレットでもない。プジョーは世間に知ってほしい新車像を明確にし、次に専用の競技車へ資源を投じ、ブランドの印象を変えられる結果を求めた。

03 / 本文

1984年、まず勝てることを証明し、それから年間王座へ

205 T16は1984年に世界ラリーへ登場した。プジョーは当初、最初から年間王座を必達とせず、一部の大会を選んだ。公式史によると、この段階では5戦に出て3勝した。アリ・バタネンがフィンランドで車両の初優勝を挙げ、その後も競争力を成績表に記した。

部分参戦でも、重圧がなくなるわけではない。新しい車を実戦で試しながら、限られた準備を特定の大会に集中できたということだ。テストでは道を繰り返し、一つの部品を変えられるが、競技には日程、路面の変化、相手の速さも加わる。一勝は少なくとも、その仕組みが一つのラリーを通して性能を結果にできることを示した。

ただし3勝と世界タイトルは別の成果だった。前者なら選んだ大会に集中できるが、後者には苦手な路面でも得点を持ち帰ることが求められる。部品の寿命、整備効率、全開で攻めるべきでないときのリスク管理は、フルシーズンになるほど重要になった。

バタネンの役割には二つの面があった。速さを外へ示すと同時に、実戦を通じて技術陣へ測定可能な問題を突きつけた。相手に対して、どこで時間を稼ぎ、どこで失うのか。走りと反応はテスト段階の判断を検証し、図面上の可能性を現実の道と相手に照らした。

1984年の意味は、プジョーが「参戦を準備する」段階から「すでに勝てる」段階へ進んだことにある。次の問いはさらに難しかった。相手が205 T16の脅威を知り、対策した後も、より幅広い条件で競争力を保てるか。そしてチームは複数のラリーの結果を年間王座へ積み上げられるか。

1985年スウェディッシュ・ラリーの雪のステージを走る、バタネンのプジョー205 T16。画像出典:Peugeot Sport
1985年スウェディッシュ・ラリーの雪のステージを走る、バタネンのプジョー205 T16。
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サロネンの1985年、速さをダブルタイトルへ

1985年、ティモ・サロネンが205 T16でドライバーズ世界王者となり、プジョーはメーカーズタイトルも取った。ブランド初のWRCダブルタイトルだった。前年のバタネンの勝利は自信の土台となったが、最初の完全な戴冠シーズンをゴールへ運んだのはサロネンだった。

チームの歴史は、最も劇的な印象を持つドライバーだけでは表せない。新車が勝てると最初に示す人と、後に年間得点争いで最良の結果を出す人は、同じとは限らない。両方を書いてこそ、段階ごとに必要な能力が見え、一人のスターが他の人々の貢献を覆うことを避けられる。

メーカーズタイトルも、ドライバーズタイトルの別名ではない。規則によって集計されるチーム成績を測るもので、各大会で参戦車両が任務を果たす必要がある。ドライバーは個人の順位のために攻め続けても、メーカーは全体の得点、車両状態、次戦への準備も考える。両方を取ったことは、プジョーの優位が一つの週末に限られなかった証拠だった。

グループBは馬力の数字や車に迫る観客の映像で記憶されがちだが、年間成績には目立たない仕事も含まれる。設定の選択、道路の記録、決められた整備時間内の問題解決は、加速が良くなっても消えない。高性能になるほど、運転や運営のミスが大きく表れることもあった。

初のダブルタイトルは、頂点での競争へ加わって間もないプジョーの計画を、競技の中心へ押し上げた。強豪へ挑む新参者ではなく、防衛の重圧を背負う立場になった。1986年は、王座がステージタイムだけでなく、規則の争いとカテゴリー全体の運命にも左右されることを早々に示した。

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1986年、最後はコースの外で決まった王座

1986年、ユハ・カンクネンがプジョーでドライバーズ王者となり、チームはメーカーズ王座を守った。だが「2年連続のダブルタイトル」だけでは結果を語れない。重大事故が相次いでグループBは終焉へ向かい、プジョーはドライバーズ王座を左右するサンレモの紛争に巻き込まれた。

サンレモでは、競技の車両検査担当者がプジョーの車体下部の部品に禁止された空力作用があると判断し、チームを除外した。プジョーは異議を申し立てたが、車は走行継続を認められなかった。ランチアのマルク・アレンがこの大会で得点し、もともと激しかった年間争いはさらに変わった。

争いは次戦までに解決しなかった。最終戦オリンパス・ラリー後も暫定得点ではアレンが首位で、王座の祝賀と未決の申立てが同時に存在した。ドライバーにとっての問題は具体的だった。ある大会の得点が最終的に有効か分からないまま、その後どれほど危険を冒すべきか決めなければならなかった。

1986年12月18日、FISAが裁定を下した。当時の報道によれば、プジョーの違反を示す証拠はなく、除外は不適切とされた。計時の問題も成績の信頼性を損なっていた。結果としてサンレモ全体の世界選手権成績と得点が取り消され、アレンはその得点を失い、カンクネンが王者となった。

プジョーの車はすでに退場を強いられており、異議が認められても、本来走れたかもしれないラリーを再現することはできなかった。したがって、チームに完走順位やサンレモの得点が後から与えられたわけではない。王座を動かしたのは、その大会の全得点の取り消しだった。

二人の候補はシーズンを走り終えても、管理上の手続きで最終順位が決まるのを待つ必要があり、1986年の終わりは重いものになった。正式な世界王者はカンクネンであり、終盤にアレンが見せた走りも消えるわけではない。プジョーは両冠を守ったが、205 T16の属するグループBに、同じ形の翌シーズンはなかった。

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グループBの後、経験は別の道へ

1997年ラリー・モンブランの山道を走るプジョー306 Maxi。画像出典:Peugeot Sport
1997年ラリー・モンブランの山道を走るプジョー306 Maxi。

プジョーは、グループBの終わりとともに205 T16の技術と人材を封印しなかった。長距離のクロスカントリー向けに改造し、パリ・ダカールへ向かった。1987年にバタネン、1988年にカンクネンが勝ち、続いて405 T16がその道を継ぎ、1987年から1990年までダカール4連覇を成し遂げた。

その成績は重要な競技遺産だが、WRCの勝利やタイトルではない。長距離クロスカントリーでは、ナビゲーション、ステージ距離、補給、環境条件が別の試練となる。車両の系統が近いだけで、WRCの延長とはいえない。プジョーは既存の基礎を新しい用途へ発展させたのであり、単に申込用紙を取り替えたのではなかった。

1990年代、306 Maxiはプジョーを再び欧州の公道ラリーの注目の中心へ戻した。ジル・パニッツィが1996年と1997年のフランス・ラリー選手権を制し、車は世界選手権の舗装路でも競争力を示した。配置も規則の背景も205 T16とは違い、特定の路面条件を生かす別の方法を表していた。

306 Maxiの舞台は、路面の違いを明確にした。舗装路が重量、操舵応答、タイヤ、動力の使い方へ求めるものは、柔らかい砂利や雪とは違う。適した道なら機敏で競争力のある車が好成績を狙えるが、年間のあらゆる路面を覆う最高峰の計画には、さらに広い適応力が必要だった。

この時期は、組織の継続性も保った。ドライバー、コ・ドライバー、整備員は実戦で働き続けた。プジョーは、誰がどの道を得意とし、準備のどこを強化すべきかを見られた。206 WRCが登場したとき、白紙からラリーを学び直したのではなく、既存の人材と経験を新しい規則の枠へ入れたのである。

1998年モンテカルロ・ラリー、プジョー306のサービスエリアの人員、タイヤ、車両。画像出典:Peugeot Sport
1998年モンテカルロ・ラリー、プジョー306のサービスエリアの人員、タイヤ、車両。
07 / 本文

206はいかにして全長4メートルの条件を満たしたか

206 WRCは1999年コルシカで正式に登場し、フランソワ・デルクールとパニッツィが初戦を担った。2リッターターボ、四輪駆動、6速シーケンシャル変速機を備え、当時のWorld Rally Car規則のもとで最高峰を争った。その名は、プジョーの頂点の競技活動を再び売れ筋の小型車へ結びつけた。

だが206には、一見単純な問題があった。全長である。普通の市販206は約3.83メートルで、この競技計画に使うモデルには4メートルの条件があった。プジョーは前後バンパーを延長した206 GTを発売して必要な長さを満たし、該当する当時の基準2,500台を超える4,000台を生産した。

それは市販206 GTが、そのままWRCを走れる四輪駆動ターボ車だったという意味ではない。約137馬力の2リッター自然吸気エンジンと5速変速機を使い、競技車の動力・駆動系は別の仕様だった。GTは寸法や公認条件を満たす役割を担ったのであり、両方が4メートルだからといって機械構造を混同してはならない。

特定の高性能市販車に依存した以前の方法に比べ、World Rally Car規則はメーカーへ別の開発の余地を与えた。広く売るモデルをイメージの基礎にし、規則に沿って競技技術を組み込めたのである。ただし自由にも境界があり、寸法、公認書類、許された変更範囲は、現実の設計条件だった。

だからバンパーの話は、面白い小話以上の意味を持つ。王者の車は、技術者が思い描く理想形だけでは決まらない。商品構成、規則の文言、競技の要求を調整する必要がある。プジョーはまず適法に出場できる条件を整え、その後にコンパクトな206の設計を速さへ変えられるか証明する機会を得た。

1999年アクロポリス・ラリーで、水たまりを通過するデルクールのプジョー206 WRC。画像出典:Peugeot Sport
1999年アクロポリス・ラリーで、水たまりを通過するデルクールのプジョー206 WRC。
08 / 本文

2000年、最終戦の2位がもたらした世界王座

グロンホルムは2000年スウェーデンでWRC初優勝を挙げた。初めて得た世界選手権フルシーズンの、重要な出発点でもあった。プジョーは雪道の一勝だけに頼らず、206 WRCはこの年6勝を記録した。王座は可能性から、取り組むべき現実の仕事へ変わっていった。

シーズンは英国で終わり、リチャード・バーンズが優勝、グロンホルムは1分5秒6差の2位だった。表彰台だけを見れば勝者はバーンズだが、年間得点ではグロンホルムが65対60で世界王者となった。プジョーは111点でフォードとスバルを上回り、メーカーズタイトルを獲得した。

この一戦は、ラリーの年間争いを説明する好例だ。最終戦の勝者とシーズンの王者は、同じ人物とは限らない。必要な結果を理解し、道路と車両の状態に応じて攻め方を決める必要がある。バーンズは最終戦を勝ち、グロンホルムはそれまでの蓄積と最後の2位で年間首位を守った。

プジョーにとって2000年の両冠は、1999年の初登場では答えられなかった問いへの回答だった。206は特定の道で驚かせるだけではなく、チームはシーズン全体で最高の栄誉を取れるようになった。205 T16とブランドの象徴を共有しても、規則と技術は別であり、相手も別の世代の成熟した強豪だった。

グロンホルムの年齢と経験も見逃せない。ラリーを始めてすぐ王者になったのではなく、フィンランド国内戦と散発的な世界選手権の機会の間で長年待った。プジョーがフルシーズンの席を与え、彼は蓄積した能力を成績へ変えた。この協力の価値は、機会とすでにある力の出会いにあり、突然現れた新人の神話ではない。

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3連覇には、一人のスターだけでは足りなかった

2000年ツール・ド・コルスの表彰台で、パニッツィ組、デルクール組らが並ぶ。画像出典:Peugeot Sport
2000年ツール・ド・コルスの表彰台で、パニッツィ組、デルクール組らが並ぶ。

2001年、プジョーはメーカーズ王座を守ったが、ドライバーズはスバルのバーンズが制した。この違いは重要だ。206のメーカーズ3連覇は、同じプジョーのドライバーが3年連続で王者になったことを意味しない。グロンホルムは2000年と2002年に戴冠し、その間の年はチームと個人の結果が異なった。

パニッツィ、ロバンペラ、時期ごとに加わった他のドライバーが、206時代の競争力をともに作った。舗装、雪、砂利への慣れは人によって違い、メーカーは参戦配置でその差を生かす必要があった。長い経験はペースノート作成、グリップの判断、走りの調整に影響し、複数のクルーは大会に応じた選択肢を増やした。

2002年のバーンズ加入は、陣容に現役世界王者をもう一人加えた。その加入を、チーム内競争がなくなったかのように書くことはできない。最良の結果を求めるプロ同士には、協力と比較が同時にある。技術者は豊富な反応を得る一方、運転習慣の違いから来る要求を見分ける必要もあった。

メーカーズ選手権では、その複雑さをチームが扱わなければならない。一周だけの最速走行のような瞬間的な速さではラリー全体の結果に代えられず、一人の得意分野で年間の全路面を自動的に覆うこともできない。採点規則や故障後に残る結果をどう確保するかも、最終得点を左右した。

206の成功を「良い車を造り、一人の王者に乗せる」だけに縮めることはできない。プジョーには各条件で使える性能と、具体的な競技の仕事を果たす複数のクルーが必要だった。グロンホルムは中心的な王者の一人だが、メーカーズ3連覇の範囲は常に彼個人の実績より広かった。

10 / 本文

2002年、早期戴冠を決めた優位はどれほどだったか

2002年ニュージーランド後、グロンホルムは67点、最も近いバーンズは34点だった。残り2戦で当時は1勝10点なので、一人の相手が追加できるのは最大20点。33点差なら追いつけず、最終戦を待たずにドライバーズ王座が決まった。

メーカーズ王座も同じ週末に確定した。グロンホルムとロバンペラの1・2位は、主将の戴冠を果たすとともに、チーム全体の優位をゴールの順位で示した。ニュージーランド後の67点を持って残りの大会へ向かった時点で、両タイトルの行方は決まっていた。

206 WRCは2002年に8勝し、この車種で最多の年間勝利数を記録した。当時プジョーが公表した集計では、2000—2003年の勝利数は順に6、6、8、4で、計24勝となる。2002年の8勝はその頂点であり、早期に両冠を確定したシーズンの流れとも対応している。

数字は優位を示すが、そのすべての理由までは説明しない。8勝は車とクルーが何度も性能をゴールまで維持したことを意味するが、全ライバルに機会がなかった証明でも、毎回同じ技術課題だったという意味でもない。雪、舗装、砂利でタイヤと車への要求は違い、毎回準備し直す必要があった。

2002年は206時代の最も明確な頂点だった。メーカーズ3連覇、グロンホルムの2冠目、そしてシーズン終了前の両冠確定である。振り返れば、その瞬間を長期支配が続く証拠と見たくなる。だが次の章は、車種を替えれば、なじみある名前や人材だけではすべての優位を保てないことを示した。

11 / 本文

307には速さがあった。それを結果に残すのが難しかった

307 WRCは2004年に206を継いで最高峰へ入った。大きな姿とカブリオレ由来の特徴的な輪郭が、新しい挑戦を示した。最速ステージタイムを出す力はあっても、故障、規則による処分、結果にならないリードが、206の連覇期との大きな違いになった。

2004年キプロスでは、グロンホルムがいったん勝者の位置にいた。しかし彼とロバンペラの車は後にウォーターポンプの規則不適合で成績を取り消され、優勝はセバスチャン・ローブへ渡った。祝えるはずの週末は正式成績の残らない大会となり、307は確定した初勝利をなお待つことになった。

正式な初勝利は、同年フィンランドでようやく訪れた。グロンホルムは土曜の3連続ステージで4速を失いながら、車をゴールへ運んで勝った。プジョーの競技後資料によれば、307は大会全体で15回の最速ステージタイムを記録し、チームは次のドイツへ5速変速機を導入する計画も示した。

フィンランドは307の両面を見せた。高速グラベルで勝てる速さがあり、同時にドライバーの操作を直接制限する駆動系の問題もあった。グロンホルムは残ったギアを使い、技術陣は部品と方式の変更を続けた。初勝利で開発が終わるわけではなく、信頼性と性能を一緒に改善する必要があった。

2005年日本では、長く首位を走ったペター・ソルベルグが最後から2番目のステージで操舵系の故障に見舞われ、グロンホルムが再び勝った。ラリーの結果は終盤でも変わることを示す一戦だった。プジョーは機会をつかんで完走したが、年間支配を取り戻すには散発的な勝利以上の継続性が必要だった。307は206のタイトルの列を継がなかった。

12 / 本文

最後のシーズンより先に決まっていた撤退

2004年11月4日、PSAはプジョーとシトロエンが2005年シーズン後にWRCのファクトリー競争から撤退すると発表した。声明は、自動車市場の環境と競技予算削減に決定を結びつけた。この日付は重要だ。方針は2005年が始まる前に公表されており、後に起きた出来事へ逆に原因を求めてはならない。

競技成績と活動の存続は、異なる力にも左右される。勝利は知名度を上げても、競技部門は企業の資源配分の内側にある。開発、商業環境、ほかの投資が、経営側の継続支援を左右する。クルーは競争力のある車を持ちながら、すでに最後と決まったシーズンを迎えることもある。

プジョーはその後も別の競技でスポーツの名をつないだ。207 S2000はインターコンチネンタル・ラリー・チャレンジで成功し、ブランドはさまざまな形のモータースポーツを続けた。成果はそれぞれの競技体系で記録すべきだ。ラリー経験が消えなかった証拠ではあるが、WRCファクトリーチームの復帰を意味せず、5度のメーカーズ王座へ加算もできない。

振り返れば、205 T16と206 WRCはまったく違う規則のもとで、ともに小型車の姿を時代の中心へ置いた。前者の道はグループB終了で断たれ、後者の支配は車種更新と企業判断の間で終わった。5冠が残すのは永遠に有効な勝利の公式ではなく、商品、規則、人材、組織を適切な時に組み合わせた二つの実践である。

年表

年主な出来事
1963、1966—1968404がサファリで4勝。いずれもWRC創設前。
1978ニコラが504 Coupé V6でサファリを制覇。
1981ジャン・トッドがプジョー・タルボ・スポールを設立。
1984205 T16がWRC参戦。バタネンがフィンランドで初勝利。
1985サロネンがドライバーズ王者となり、プジョーが初のメーカーズ王座を獲得。
1986カンクネンがドライバーズ王者、プジョーがメーカーズ王座を防衛。グループBシーズン終了後に撤退。
1987—1990プジョーがダカール4連覇。別の競技記録として扱う。
1996、1997パニッツィが306 Maxiでフランス・ラリー選手権を連覇。
1999206 WRCがコルシカで初登場。
2000—2002プジョーがWRCメーカーズ3連覇。グロンホルムは2000年と2002年のドライバーズ王者。
2004307 WRCの初シーズン。フィンランドで正式な初勝利。
2004年11月PSAが両ブランドの2005年シーズン後のWRCファクトリー撤退を発表。
2005プジョーがこのWRCファクトリー計画の最終シーズンを完了。

タイトル記録

項目2025年末時点の歴史記録
WRCメーカーズタイトル5回:1985、1986、2000、2001、2002年。
プジョーのドライバーが獲得したWRCドライバーズタイトル4回:サロネン1985年、カンクネン1986年、グロンホルム2000年と2002年。
206 WRCの世界選手権ラリー優勝数24勝:2000年6勝、2001年6勝、2002年8勝、2003年4勝。
メーカーズ王座の二つの絶頂期205 T16時代に2連覇、206 WRC時代に3連覇。
集計範囲ダカール、フランス選手権、IRC、ル・マン、パイクスピークは上記WRCの栄誉に含めない。
資料と関連文献
2000年スウェディッシュ・ラリーで10号車のプジョー206 WRCを走らせるグロンホルム。画像出典:Peugeot Sport
物語のもう一つの側面 / 次に読む

マーカス・グロンホルム:初勝利までの11年、そして4点差の別れ

フィンランド国内戦から2度の世界王座、そして2007年の4点差へ。ラウティアイネンとの長い協力を振り返る。

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